1月25日 礼拝メッセージ

「闇と光 遙かなる人生の旅路」 エフェソの信徒への手紙5章6−20節


 エフェソ人への手紙ではクリスチャンとして歩む基本的な「歩き方」を示している。第一に「光の子らしく歩みなさい。」(5:8)と言っている。ここで言う「光」は「善意と、正義、真実」を言っている。本来、光に対して闇がある。闇は不安や不幸と混乱を指していて、悪を表わし罪悪を意味する。それに対して光は希望と喜び、安心と平安を表わしている。何よりも暗闇は何も見えないことである。外側がわからない。判断できない。どのように進んでいいかわからない。光の中を歩くことは見えることである。周りが解る事によって自分の進む道が決まることになる。光の中を歩くことは正しく、善なる方向を目指す道でもある。基準があって正義や善があり、そこに真実の歩みが生まれる。

1月20日にバラク・オバマが第43代米国大統領として就任した。米国では建国の理想として人権の尊重と自由を国是としてきた。しかし、当初より黒人を奴隷とし、有色人種を差別し、原住民の犠牲によって国が建てられてきた経緯がある。L・キング牧師は「『すべての人間は平等である』というこの国の信条を真実にする日が来るという夢なのだ。私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷を所有した者の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。私には夢がある。

今、差別と抑圧の熱がうずまくミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わり得る日が来るという夢が。私には夢がある。私の四人の小さい子ども達が、肌の色ではなく内なる人格で評価される国に住める日がいつか来るという夢が。」差別と屈辱、殺戮と弾圧の歴史であった。いまや、その夢の第一歩が黒人オバマ大統領の就任である。米国は人間の縮図を体現している。

闇の心と光の心を人は持っている。定番の西部劇のストーリーのように悪玉と悪玉がいるわけではない。人の心には善悪が同居し、人はその狭間で苦しむ罪深い存在である。象徴的に米国の大統領宣誓式は「聖書」に手を置いて「神」に決意を誓うのである。それは神の御心にそう生き方をすることの決意でもある。現実の闇の中でこの光としての「聖書」キリストのみ旨に生きる生き方である。アメリカの闇は時と共に光を取り戻す力がり、希望があることになる。それが「何が神に喜ばれるかを吟味する」(5:10)ことになる。

光の子らしく歩くことは神の御心に生きることである。第二に、キリストの光に歩むことは「キリストの愛よって歩む」(5:2)ことになる。神を信じること、神の御心に歩むことは神の愛をもって人を愛し合うことを聖書は教えている。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(ヨハネT4:12)神の愛は仕え、愛している者の為に犠牲になる愛である。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)この言葉に尽きる。

そこには差別、偏見はない。神の目には、人は一人ひとりかけがえのない尊さを持っている。 第三に、「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」(エフェソ5:15)「賢く、気を配って歩みなさい。」という。それは「今が悪い時代である」という認識である。どのような時代にも苦難や試練はある。

しかし、どのような時にもしっかりした「たしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものである。」(へブル6:19)マタイ福音書6章では愚かな人と賢い人の説明がある。「聖書」のみ言葉に聞き従わないものを愚かという。み言葉に聞き従うものを賢者という。キリストの言葉に生き従う人は「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネ15:7)キリストの原則を実践するところに、希望と解決があることを信じようではないか。



今週のみ言葉

 「あなたがたも愛によって歩きなさい。」 エフェソ5章2節




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