2月8日 礼拝メッセージ

「幸せな生活の基礎としての信仰」  へブライ人への手紙11章1−3節

この世の中には「見えるもの」と「見えないもの」とがある。見えるものは確かめられるが、見えないものが「ある」ことは確かめることが難しい。「心」や「愛」は、人には見えない。見える方法は生活や行いで確かめるしかない。実際の生活では人は愛し合うことによって家族は結ばれ、友情が生まれる。先ず見えない愛によって人間は互いに結ばれる。愛は見えない。愛は、愛があると信じるときに存在する。信頼のない愛はない。人は、信じて生きるもの(存在)である。人は、人や、人の言葉が信じられなくなると生きていくことはできない。今日では食材の偽装や、毒物の混入などが社会問題になるが普通の生活では食べるものは毒が入っているかどうかなどと疑って食べる人はいない。人は、出されたものは信じて食べる。人は何も信じられなくなると色々な人格破壊となって現れる。

人の心や愛にはいつも真実があるだろうか。たいていの場合、人の心は損得で動く。そこで現れてくるのは駆け引きである。その取引には保証はない。そこに人生や生活の脆(もろ)さがある。そして、その脆(もろ)さは自分の「内に」ある。いつも欲望と欲情にかき回される。そこでは理性も知性も役に立たなくなることが多い。その弱さ、罪深さに気付いて真実にして変わらない神に立ち返るのが「信仰」であり、神を信じることは神の言葉を信じ、生きることである。

 イエス様は聖霊を受ける時、教えておいたこと、自分に起こった出来事(十字架と復活)の意味を知るであろうと約束されていた。キリストを信じることは、キリストによって示された神を信じることであり、キリストによって表わされた神の愛を生きることである。使徒言行録2章には約束の聖霊を受けて活ける愛なる神を確信する弟子たちが描かれている。神の愛に生きることによってキリストの教会が生まれたことを記録している。

 キリストを信じることは神の言葉を信じることであり、信じる人々は共通した神の言葉に結ばれていることになる。神を愛することは、人を神の愛をもって愛することであり、神を信じることは、“人を信じること”ができることになる。神の真実が人の真実となる時に変わらない支えとなり、力となる。 神を信じることは、神との正しい回復であり、人が神を疑い、拒絶し、反抗し、無関心であった過ち、即ち、「罪」を自覚して悔い改めて、初めて神の愛としての赦しを経験することができる。キリストはまさに神の愛を表わすために自己を犠牲にして十字架に架かり人々の罪の身代わりになられたことを示していた。

 人が生きる、人と共に生きる勝利の人生の基礎は神を信じる「信仰」にある。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(へブライ11:6) 信仰なくして人は生きることができるかもしれない。しかし、キリストのない世界は欲望と欲情を秘めた損得の自己中心に生きる人生でしかない。「金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である。」(伝道の書5:9口語訳)つまるところ人生の目的は解らなくなり、何のために生きているかもわからない人生となるのではないか。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントU4:18)

「わたし(キリスト)は平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネ14:27)

 キリストに生きるときに活ける神は人の心に生き、神の愛が生きる道筋となり、力と命となって家庭に平和と社会に希望となって実を結ぶことになる。




今週のみ言葉

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」ヘブライ11:1




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