2月15日 礼拝メッセージ

「イエスの洗足の教え」   ヨハネによる福音書13章1−15節

 イエス様には12人の使徒と言われている弟子があった。その中でもユダはイエス様を裏切った弟子として知られている。確かにユダはイエス様にサタン呼ばわりされているが、イエスは御自分の意を理解しないペテロをサタン呼ばわりされている。(マタイ16:23)弟子達がイエス様に期待したユダヤの伝統的なメシヤ(救い主)終末思想としての「神の国」は、支配するローマ帝国の植民地を脱却し、独立を勝ち取り世界を制覇して樹立するものであった。

イエス様は確かに受難される悲劇的な結末を予言された時に弟子たちは驚きと戸惑い、失望感を持ったといえる。その不安の中でイエス様の真意を理解できないまま、なを、様々な偉大なる軌跡や教えに思慕していた。その背景でペテロのイエス様批判がサタン呼ばわりとなっている。

ユダ以外の11人の弟子たちは最期にイエス様が敵に捕まる時みな逃げさった。そして、裁きの座では見ていたペテロはイエスとは何の関係もないと宣言する始末であった。このようなことからユダは理性的で批判的な人間であった。反面、その偉大な奇跡の行いなどから危機に際して打開して奇跡的に道を開いて自分達の思いを達成してくださると見ていたのかも知れない。 愛の表現、接吻を持ってイエス様を裏切ることになる。その結末はイエス様が語られた十字架の悲劇となって終わり、ユダは罪を自覚して悔やみ自害するのであった。

 弟子達と最期の分かれの食事をする時、イエス様は突然、盥(たらい)に水をはり弟子達の足を洗い腰にからげた手ぬぐいで拭はじめられると最年長のペテロが「洗わないで下さい」というとイエス様は「私のしていることは今はわからないが後でわかるようになる」と言われた。

そして、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(ヨハネ13:14)という言葉を最期に残された。そして、新しい戒めとして「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:35)と言われている。神の国は「神の愛」で成り立つ国であり、人の関係であることを示されている。イエス様の十字架の出来事は、愛するものの為にいかなる犠牲をもいとわないことを示している。

第一に、イエス様の洗足は師が弟子の足を洗うことを通して神の愛が具体的に表わされているといえる。「人の子(イエス)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:4)真実の神はあいなる神であり、人の犠牲となって与える、仕える神であるということである。

第二に、イエス様は「足を洗わなければ関係がない」と言われている。それはイエス様が弟子を一人ひとりへの愛を受け入れることにほかならない。キリストを信じることはキリストを受け入れる、愛することにほかならない。キリストの御心、その教え、その言葉に生きるところに神を経験することになる。神のいますところに神の国が経験されると言える。

第三は、「互いに足を洗い合う」ことが実践されるところに「へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」(ピリピ2:3)「互いに重荷を負い合いなさい」(ガラテヤ6:2)という具体的な愛の証が生まれる。

 ユダも迷い多いキリストの弟子であった。批判的で、計算高く、現実主義者であった。最期まで懐疑的であった。しかし、イエス様が有罪を宣告されて、その自分の愚かさに気づいた。しかし、キリストの赦しの愛の真理を受け入れられなかった悲劇である。

「あなたは命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。」(詩16:11)





今週のみ言葉

「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」エフェソ4:3




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