3月1日 礼拝メッセージ

「キリストの言葉に生かされる幸せ」  ルカによる福音書10章38−42節

 イエスは山上の説教の最期で「賢い人」と「愚かな人」を対比して話されている。み言葉を「聴いて行う人」と「聴いて行なわない人」を指している。「岩の上に家を建てる人」と「砂地の上に家を立てる人」でなぞらえている。嵐が来て大雨が降る。砂地の上に立てられた家はすぐに押し流される。しかし、岩の上の家は洪水にはびくともせず克服できると言うのである。「愚か」というのは土台を考えないことを言う。長い人生には色々な試練や困難に直面したり、迷い、苦しむことがある。どんな時でも詩編の46篇の言葉のように「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」(46:2−4)と告白できることは素晴らしい。

人は信念で生きる。信念は言葉である。人を生かす信念の言葉は命の言葉であり、力の言葉である。キリストの言葉は人を生かす命の言葉であり、恵の言葉、希望の言葉である。キリストは「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ15:7,8)と言われている。このキリストの言葉には「可能性」の希望と「結実」の約束がある。

キリストを信じるクリスチャンは希望と結実の約束が与えられている。その前提として「キリストの言葉」のうちに居る。「居る」とは聖書の言葉では「メノー」といってともに「住まう」「生活する」ことを言う。キリストの言葉を「思い」、キリストの言葉で「生きる」そこにキリストの約束の祝福が生活と人生に中で実ると約束されている。

ルカによる福音書の10章にはマルタとマリヤの姉妹がイエス様を家に迎え入れた時のことが記されている。この姉妹はイエス様を愛していた。姉のマルタはイエス様を迎える喜びに最上のもてなしをしようと心を砕いてあれこれと用事をしていた。妹のマリヤもイエス様を愛し慕っていた。そこでイエス様が家に来られると側でイエス様の話を聴こうと座り込んでいた。

マルタは、何もしないマリヤを見てずるくて怠けているように思いいつのまにか怒り心頭に来て、イエス様にマリヤにちょっとは手伝うように言って下さいと言った。その苛立つマルタを見てイエス様は「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:42)と言われた。ここでイエスは人にとって最も大切なものは何かを教えておられる。その大切なものを最優先することこそ神様を喜ぶことであり。神に喜んでいただける祝福の要件であるという。

キリストの言葉、聖書の言葉を聞き、知り、学び、憶え、生活することを基本にする時にこそ「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収める」(ロマ8:37)ことができる。だからこそ「日々」にみ言葉、聖書を学び、瞑想し、心に深くとどまるように咀嚼(そしゃく)し、その言葉がいのちとなり力となるようにしたいものである。毎日の始めはみ言葉、聖書を拝読し、学び、祈る一日でなければならない。

そしてみ言葉に導かれ、み言葉に養われ、み言葉に支えられて日常の事柄にあたろうではないか。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩1:2,3)




今週のみ言葉  コロサイの信徒への手紙3章16節

「キリストのことばがあなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、
 詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」
 




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