3月8日 礼拝メッセージ

「素晴らしい祈りの生活」 マタイによる福音書18章15−20節

 「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)このイエス様の言葉はクリスチャンになることを説明している。新しく生まれるとは言うまでもなく、神様を信じていない人が、罪悔い改めて回心することである。本来、人間は良心を持っている。

心に人間として、して良いことと、悪いこととの認識を持っていることになる。しかし、人の動機はきわめて自己中心であり、所詮(しょせん)、自己中心になって欲望と欲情に振り回される。そこで、争いや虚偽、ねたみや、猜疑(さいぎ)が混乱となる。

使徒パウロは「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ロマ7:18−20)と言っている。まさにこの告白はすべての人の現実は罪深いものであると言っていることになる。

その罪に目覚めて回心し、創造主にして、命の根源である真実な神を信じるときに「神の国」が見えるという。見えるとは経験であり認識することにある。神の国は神の御心に生きる国である。聖書は「神は聖にして、愛である」という。神の国は死後の永遠の国だけではなく、今、信じるものには神の国の原則が生活に生かされ、神の国を現実に生きるものとされることを意味している。

新しく生まれる、即ち、新生とは神を信じる「神の子」の誕生である。神の子は神のいのちに生きる。いのちは聖霊によって心に変化をもたらし、生活に活ける神を体験することになる。その神様とのいのちは「祈り」によって具体化される。「祈り」は神の子としてクリスチャンの生きた信仰の証でもあり、まさに霊的生命の呼吸であるといわれる。祈りの生活は活きた信仰の証でもある

第一に、クリスチャンの生活は「祈り」で始まる。先ず、生かされている喜び、そして今日も「神の国」が生活に体験できるように期待することになる。神様の恵み、祝福、を感謝することから一日は始まる。まさに祈りは信仰の告白であるといえる。

第二に、「祈り」は賛美である。賛美のあるところに祈りがある。祈りのあるところに賛美がある。活ける神の恵みは素晴らしい体験である。その意味でクリスチャンにとっての日々は祈りの日々であり、賛美の日々である。祈りは信仰による賛美となり、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(へブル11:1)信仰の現実的な確信となる勝利の宣言でもある。

第三に、クリスチャンの祈りはイエス・キリストの名による祈りである。「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:19−20)

イエスの名によって二人、三人集まるとはキリストの教会を指し、まさに、心を一つにすること、人が一つになることは「キリストの愛」が生かされていることであり、そこには愛による赦しと融和があり、一致が生まれる。そのキリストにある一致こそは、「天の父はそれをかなえてくださる」のである。そこに可能性と希望が生まれ、確信と固い絆が生まれる。祈りは力であり、祝福の鍵である。





今週のみ言葉  エフェソの信徒への手紙

「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」
 




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