3月15日 礼拝メッセージ

「豊かな祝福の時」 ヨハネによる福音書2章1−11節

 人生で幸福感に満たされ、周りの人々にも祝福される時は結婚式である。結婚式は生涯を共にする新しい、未知の生活への夢と希望の出発である。反面、内心では未知の共同生活に不安を感じる人もある。そこで結婚式には誰でも細心の注意をして望む。それでも式の準備で用意するものが手ぬかっていたり、披露宴の予定が狂ったり、料理が足らなくなったりする時に困り果てることがあり、祝福が失われたような感じにもなる。

ヨハネの福音書の2章にはイエス様が始めて奇跡を行なわれた有名なカナの婚宴の出来事が記録されている。当時のイスラエルの婚礼では宴席が一週間ぐらい続いたようである。そこには、イエス様と弟子達が行った時に既に母であるマリヤが居た。

少なくともマリヤが宴会の心配をしていることからマリヤの姉妹の子の婚宴であったとも言われている。宴もたけなわになったがぶどう酒がなくなってしまったというのである。思ったより予定しない人たちが来たのであろうか十分用意したぶどう酒が足らなくなった。母マリヤはイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言った。

しかし、その言葉の裏には困っている。招待客に申し訳がたたないし、世間体もある。人が、何を言うか解らない。ぶどう酒も十分に出さなかった。ケチで貧乏なくせに結婚式なんかしてというようなことを言われるのではないかという困惑と心配があったと想像出来る。母マリヤの優しさは困っている親戚を何とかしたいという気持ちでいっぱいであった。この期に及んで母マリヤは何故召使いにイエス様の「言われた通りにしなさいよ。」といったのか。

イエス様が公然と神の国を語り、神の子としての働きを始められた姿を見て、イエス様が神の人であるということを確信していた母マリヤは、イエス様がこの苦境の時、助けの道を開かれると確信していた。

イエス様は召使に空の水がめに「水をいっぱい入れるように」と言われる。それを世話役のところに汲んで持っていった。それが最上のぶどう酒であるので驚く。普通は最初によい酒を出して酔いが回ると劣ったぶどう酒を出していた。

この出来事が語るメッセージは、第一に、困難や苦境にあるときにイエス様に祈ることの素晴らしい恵を学ぶことができる。母マリヤは何かを願うのでなく、イエス様の言われるようにする。待つ心の大切さをいう。自分の要求を押し付けるのでなく、イエス様の愛と力を信頼するところに祝福の解決を与えられるというのである。わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。(イザヤ30:15)信頼していることに力があるという。まさに信頼、信仰は神の力、いのちを引き出す鍵である。

第二に、奇跡はしるしである。しるしとは神が共におられるという体験でありメッセージである。起こりえないと思っていることが起こる。不可能と思っていることが生活の中に起こる。愛する人を生かすために希望の道を開くのが創造主への信仰である。

昨日新聞のテレビ欄を見ていると「ありふれた奇跡」というタイトルがあった。ドラマの内容は知らないが、このテーマに目が留まった。あふれた日常的に繰りかえされることは奇跡と言わない。

しかし、まさに今生きている自分、生かされている自分、空気や水の存在、自然の仕組み何一つとっても「ありふれた奇跡」であると言える。自分の力でなく神の恵み、神の配慮、神の愛に囲まれた軌跡の存在である。カナの婚宴では誰も良い酒がどこから来たのか、水が変えられたぶどう酒であることも知らないでその美味さに舌打ちして賞賛した。神の祝福は日常の中で備えられていると言える。「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」(ヤコブ1:2)

第三は、後で最高のぶどう酒が出てきた出来事を人の知るところとなる。「栄光」が表わされるとは、人がこの恵を認識し、神は生きておられることを褒め称えることにほかならない。だからこそ「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケT5:16−18)という。



今週のみ言葉  イザヤ30章15節

「まことに、イスラエルの聖なる方
 わが主なる神は、こう言われた。
 『お前たちは、立ちかえって静かにしているならば救われる。
  安らかに信頼していることにこそ力がある。』と。
 しかし、お前たちはそれを望まなかった。」




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