3月22日 礼拝メッセージ

 ゴスペル福音の喜び」  ルカによる福音書15章11−32節


 「喜び」は生活の力であり潤滑油である。「喜び」という言葉に関連して「楽しみ」「笑い」がある。関西を代表する文化の一つに「笑い」がある。「笑い」と言えば漫才や落語である。「笑い」を「楽しむ」ことが「喜び」となる。「笑い」は理解であり、「共感」である。共感が内心的な仲間意識を生み、心を安定させることになる。

最近では「笑い」が医療に効果があるといわれている。「笑い」が自然治癒力を醸成するようである。漫才などの笑いには「ボケ」と「突っ込み」があって、それは「聡明」と「アホ」を演じることの中で「笑い」を誘う芸である。聴衆は「アホ」を演じていることを承知しながら、優越感に浸り、また、「アホ」の劣等感に共鳴する交流の中で生きる切なさや、道理の無代性に共感して「楽しみ」「喜ぶ」ことになる。

これが大阪の庶民の息抜きとなる。息抜きは人生の「間」である。そこには安堵感があり、自分を見つめなおすことにもなる。ある意味で関西の笑いは「安堵感」となり、自分を見つめることにもなっている。

人は世間の風習や時代の流れに影響されやすい。人としての自分の生き方と反対の方向に流されることが多い。ルカによる福音書の15章にはイエス様の有名な放蕩息子の話がある。

二人の息子があり、兄はいたって家のために尽くす平均的な息子であるが、弟は今様に言えばトレンドに弱く、世間の風潮に流されやすく親の意見と合わない。都会に憧れ、賑やかな楽しみに引かれる。そこで父親に自分の財産の分け前を求めて、都会に行くことを求める。父は世間の生活は厳しく、特に都会での生活は誘惑が多く若者を堕落させることが多いから時を待つようにいう。

しかし、弟は都会に出た若者達の情報を元に魅力的な生活を夢見る。父は、とうとう根負けして、弟に分ける一切の財産を渡して送り出す。弟はご他聞に洩れず、手持ちの豊かなお金で魅力的な都会の遊興にふける。お金があると友達も集まる。時悪く、経済不況となる。飢饉である。

気がついてみればお金はそこを尽き、「金の切れ目が縁の切れ目」「金がないことは首がないこと」の台詞のように、助けを求めても友人は、今は他人。困窮と孤独、悲嘆と絶望、見るも憐れ。食べるものもなく豚の残飯を求めてもくれる人はない。あまりに惨め、空腹の幻覚に悩まされながら、「われに返って」、口語訳では「本心に返って」とある。始めて今までを振り返り、父親の忠告の言葉や、豊かな父の家を思い起こし、自分の悪を悟り、回心して父の家に帰る決心をする。

この物語のメッセージの第一は、人間は目先のことに惑わされて、「喜び」即ち快楽を求める。なにを大切にすべきかが見えない。お金は命ともいわれるように、破壊的な快楽「楽しみ」に使うこともできる。お金は人を生かし、人を殺すことも出来る。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。…あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)この富はマモンであってマネーの語源であり金を神とする拝金主義をとなる。

聖書は「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:14,15)と言う。第二に、現実に悲惨は自分の罪であることに気付く。第三に、罪を認識し、その罪からはなれる決心をする。第四に、父の恩恵を受ける資格はないが、父の愛に希望を持つ。第五に、父は、どんなになっても子を忘れない。わが子が、人間性を取り戻した。死から甦った。回復した子を待ち迎える。そこに失われたものが甦る「喜び」を祝う「楽しみ」が生まれる。

これはまさに神が愛であり、その愛が自己を見失った悲劇からの生還を喜ぶ姿がある。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)キリストは御自分のすべてを犠牲にして、その十字架に懸けられすべての人が人間性を回復する道筋を示された。

それを福音という。「よき訪れ」である。キリストの十字架に神の愛と罪の赦しにであい続けることによって、人として生かされる希望が「喜び」となる。福音・ゴスペルは「喜び」に人を生かす希望となる。



今週のみ言葉  ヨハネT2章2節

「この方こそ、わたしたちの罪いや、わたしたちの罪ばかりでなく、
 全世界の罪を贖ういけにえです。」




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