3月29日 礼拝メッセージ

「キリストの十字架の意味」 ルカによる福音書23章13−43節


 十字架は、今では誰でも気軽にペンダントなどでアクセサリーとしてつけている。工場等でも緑色の十字架がある。赤色の十字架は博愛のシンボルとして赤十字社のマークになり世界で共通している。十字架は本来、重罪人の処刑の方法である。それは美しいものとはかけ離れた人間の醜悪な罪業の果てを意味するものであり、言い換えれば凄惨で人間の苦悩をさえ表わしている。それはこの世の正義を裏切り、許されない法を犯した結果でもある。十字架は正義に対する反逆の報いであり処罰である。

その十字架が何故「安全」「博愛」「平和」のシンボルなのか。キリストの十字架は「神の愛」と「義」が表わされていると。ルカによる福音書23章にはキリストが何故、裁きを受けられ、十字架で処刑されたのかそのいきさつが記録されている。キリストが十字架につけられた日は、ユダヤでは民族的な祝祭日で昔エジプトに寄留していて苦難と迫害の中にあった民が神の不思議な導きで解放されたことを祝う「過ぎ越しの祭」の日であった。

その日には一人の重罪人の恩赦の慣習があった。イエス様は、実はユダヤの指導者である律法学者や厳格な律法主義者のファリサイ派の人々から告発されていた。いアス様は「律法は人の為にあるのであって、律法の為にあるのでない。律法は神の御心であって『愛』である」と言われた。

安息日には仕事をしてはいけないという「律法」があるが、人が死にかけている時、その人を治療し命を助けることは「人間」として根本的な行いである。律法が禁止しても人の命を救うことは、神から与えられている命を救うことである。それが愛に生きることである。何にもまして神の御心である「愛」に生きることが神の国に生きることであり、その人にこそ永遠のいのちとしての「神の国」が約束されていると教えられた。

その当時ユダヤはローマの植民地であって一般的な裁判権をローマが支配していた。総督ピラトは、イエス様を告発することは、ユダヤ人の宗教上の問題であって死罪にするような罪ではないので恩赦で許す事にしようと言った。民衆は熱狂して殺人と暴動罪のバラバを赦せと叫んだ。不思議なことにユダヤ人たちは現実に騒乱と殺人罪のバラバを赦せという。

バラバは熱心党と言われる愛国主義者でローマの横暴な植民地支配からの解放を願っていた。それこそが「神の国」ユダヤ帝国の現実であり、神がユダヤに約束されている「神の国」の実現であるという過激な分子であった。ローマの総督は治安と支配の為にこの国粋主義的熱心党を重罪とした。

バラバは、ローマ支配打倒を目論み、手段を選ばない闘争を展開していた。民衆は熱狂的にバラバを支持していた。反面、イエスはどのような罪人も、神は愛であるから救われ、神の国に入れられると説かれた。愛し合うことによって活ける神は共にいてくださる。神の国はもう今、来ている。どのような人も悔い改めて「神の国」を信じなさいと言われる。しかし、ピラトは治安を優先して民衆の声にしたがって最期にを釈放し、イエスを十字架に架ける事になった。

そしてイエスは言われた「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)イエスは最期まで人々を愛された。愛は赦しであり、解決と救い、平和の鍵となる。イエスは真実に人の生きるべき「神の愛の道」を表されたキリスト(救い主)である。

「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Tヨハネ2:2)「 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」
(Tヨハネ4:10−12)

今週のみ言葉  ヨハネ手紙T3章16節

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは
 愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」




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