4月5日 礼拝メッセージ
 「イエスの受難と祈り」  ルカの福音書22章39−46節

今週は受難週である。イエス様の生涯を記録した四つの福音書では最期の一週間に集中している。イエス様の受難と復活の記録になっている。その記録はイエス様の祈りの記録でもある。イエス様の受難はゲッセマネの祈りで始まった。その受難は祈りに支えられ、祈りに導かれ、祈りに確信づけられていた。

イエス様はゲッセマネの園で「「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)と祈られた。また、ルカ福音書では「汗が血の滴るように地面に落ちた」と描写している。如何に苦痛と苦悶の中で祈られているかがわかる。

イエス様は二つのことを祈られている。その一つは、「できることならこの杯を取り去らせてください」ということであった。これは人間でありながら完全な人、神としてその御心を生きられた方が、受けなければならない罪の代償としての十字架の道を歩まねばならない恥辱と苦悩への解決の叫びであると言われる。それは、今から起ころうとしているこの世が神を拒絶する象徴的な出来事である十字架、絶望と虚無による煩悶の道を受けなければならない苦悩を取り去ってくださいと言う意味に取れる。ある意味で人間の果てしない弱さを表わしているという。しかし、その次に祈られた「私の思い通りでなく、御心のままに」ということこそ、その真意が表わされている。

いかなる苦悩と屈辱があろうとも父なる神の御心であれば、その道こそは人になられた神としてのイエス様の進む道であることを受け入れておられるのである。イエスの祈りは十字架の苦難の道を受け入れる祈りであった。その祈りこそは十字架の上ですべての人間の、全世界の罪の代償として受ける屈辱と苦悩をお受けになることであった。

ヨハネの第一の手紙には「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(4:9,10)そしてはっきりと「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(2:2)と言っている。

まさにイエス様が十字架の上で裁き人ピラトに無罪と言われながらも、死罪を受けなければならない出来事を通して人間の罪の実相を示された。人は、真実の神、愛なる神を無視し、拒絶することで虚無と絶望、人の儚さをさまようことになる。まさにそれが地獄であり、罪ある人間の人生であることを示されている。イエスの十字架が神の愛と赦しであり、自分の罪のための代償の苦悶と悲しみであることを自覚して受け入れるときにその罪深い現実から離れ、神に帰る決心をすることこが信仰である。

イエス・キリストに出会い、イエスが自分のために十字架に身代わりとなって苦しまれた事実を信じるとき、神から離れた罪深い自分の現実を自覚して、その罪を告白して悔い改め、イエス・キリストによって表わされた神の救いの愛と赦しを経験することになる。

イエス・キリストは今もあなたのために、すべての人が神の心を取り戻し、神の御心に、即ち、神の愛に生き、真実の平和となるように祈られている。「この方(イエス・キリスト)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(へブル7:25)




今週のみ言葉  コリントU5章21節

「罪と何のかかわりもない方を神はわたしたちのために罪となさいました。
 わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」




 ページのトップへ    2009年の礼拝メッセージ  他の年の礼拝メッセージへ      トップページへ