4月12日 礼拝メッセージ
「真実の喜びと平安」  コリントの信徒への手紙T、15章12−20節

 自分で願って生まれた人は誰もいない。また、自然な日常では人は自分で願って誰も死ぬ人はいない。しかし、人は自分で命を断つことはできる。生きたい、しかし、生きることに絶望する、万策尽きて死を選ぶことになる。それは不自然である。自然の中の命ある植物にしろ、動物にしろ、自然の仕組みに従ってその命を伝えている。動物が人生を儚み、人生の目的がわからないと悩むこともない。ひたすら食を求めて満足すれば安らぎ、食物がなければ求め続け、死を迎える。

何故、人は、生きる意味を尋ね、生きる喜びを求めて生き甲斐を尋ねるのだろうか。人間は、動物が生理的に生きることと何等変わらない。しかし、犬や、猫に餌をやるように人に同じような仕方で食べ物を差し出したらどうであろうか。きわめて人を見下げ、人格を無視することになり、赦されることではない。人、一人ひとりにはかけがえのない尊さがある。人の持っている誰も奪うことの出来ないものである。それを「人権」という。

人権は、人が人として生きる誰も奪うことの出来ない尊い権利だといえる。聖書に教えられる人権を有名なアメリカの建国宣言に記している。そこでは「すべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき権利を与えられている、その権利には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれている」と纏めている。神が人に与えられた権利である。

しかし、人が自分の自由と幸福だけを求めていては争いと殺戮の連鎖が生じ、地獄となる。人の権利を認め合うことによって真実の幸福と平安が生まれる。地獄とは神のない世界である。地獄からの救いは“お互いを認め合う」即ち、「愛し合う」ことである。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださる」(ヨハネT4:12)と聖書は言う。

「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創世記1:27)そして聖書は「神は愛である」(ヨハネT、4:8)と言っている。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とキリストは言われた。「これ以上大きな愛」とは完全な愛である。人が人のために命を捨てる思いで生きるとき、互いの絆は固く結ばれその愛は信頼と平和を生み、共生の希望が生まれる。

神は人を土で造り、「息」を吹きかけられたときに人は生きる者になったと創世記に記されている。(創2:7)息はルーハーと聖書の言葉では書かれている。神の息は「神の霊」という意味でもあり、神の霊とは神の命、即ち、人を生かす力である。まさにそれは「神の愛」にほかならない。神を信じないことは神の命を失うことであり、真実に人が生きる命として愛を失うことになる。

キリストが神の愛に生きる神の国を教え、十字架でその犠牲の愛を実証された。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)キリストを信じることは神に愛されていることを自覚することである。神の愛に生きる、神の命に生かされる、人が真実の意味で人に成る、甦る、復活することである。

人の人生にはおわりがある。しかし、イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)と言われている。キリストを信じるときにキリストの永遠の命に生きることになる。そして、キリストは「甦る」という予告どおりに死んでから三日目に甦られた。(ルカ24:)キリストを信じる人生は死で終わるのでなく、死は永遠の変化の区切りである。永遠に神と共に生きること速、死を越えて神の国に生きることになる。

今現実の中で神の愛に生きることこそは神の国に生きることであり、神の臨在に生かされることになる。今は罪と争いの耐えない神不在、即ち、地獄の現実である。その現実に愛と善なる神がおられることを信じることによって神の失われた命、霊が信仰によって甦り、神の愛を原理に生きる希望と喜びと平安が与えられる。キリストの復活の信仰は現在を神の国に生き、死後の神国の永遠を今に生きる鍵となる。信仰の鍵は今に永遠の神の国を開く希望である。そこに真実の生きる喜びと平安が約束されている。



今週のみ言葉  ローマ5章21節

「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」




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