4月19日 礼拝メッセージ
「諸々の民よ 主に向かって賛美せよ」  詩編146編1−2節

 人は、人生の意味を問い、目的を求める。聖書は人間は神によって創造され、神に似せて創造されたと言っている。父なる神は命の根源である。神を見失った人間でありながらも、子供が本能的心情で親を慕うように魂の父としての「神」を求める。また本来的に人は神の性質としての「正しく生きる」「美しく生きる」「善意に生きる」「共に生きる」「平和に生きる」ことを慕い、求める。美に憧れ、善に親しみ、真実の愛を求める。失った魂の父、真実の父、神を求めて憧れ、さまよい、神を思い描いて絵画となり、彫刻となり芸術が生まれる。そこに偶像が生まれることになる。

「偶像を形づくる者は皆、無力で、彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。無力な神を造り、役に立たない偶像を鋳る者はすべて、 その仲間と共に恥を受ける。職人も皆、人間にすぎず、皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける。鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。

槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働くが、飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる。木工は寸法を計り、石筆で図を描き、のみで削り、コンパスで図を描き、人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り、神殿に置く。彼は林の中で力を尽くし樅を切り、柏や樫の木を選びまた、樅の木を植え、雨が育てるのを待つ。木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝むのか。

また、木材の半分を燃やして火にし、肉を食べようとしてその半分の上であぶり、食べ飽きて身が温まると、『ああ、温かい、炎が見える』などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造り、ひれ伏して拝み、祈って言う。『お救いください、あなたはわたしの神』と。彼らは悟ることもなく、理解することもない。目はふさがれていて見えず、心もふさがれていて、目覚めることはない。

反省することもなく、知識も英知もなく、『わたしは半分を燃やして火にし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。残りの木で忌むべきものを造ったり、木の切れ端を拝んだりできようか』とは言わない。彼は灰を食らい、惑わされた心は、その道を誤らせる。彼は自分の魂を救うことができず『わたしの右の手にあるのは偽りではないか』とすら言わない。」(イザヤ44:9−20)偶像とは“真実ではない”“現実ではない”ということになる。日本の宗教心情は自然を神とすることに違和感がない。

月や日であり、山や滝、森羅万象が神であるとする。挙句の果ては“馬頭観音”“蛇神”“伏見の狐”“狸谷不動”など、動物が“ご神体”にさえなることもある。少しの知性と理性があるなら分かるはずである。聖書は「 初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1)「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ1:3)

ここで言う“言”とはロゴスという言葉であり理性を表わしている。世界の自然はマクロとミクロの世界も相互に関連しながら理路整然と成り立ち、その原理を極め組み合わせて科学や文化が発展してきた。神の創造された中で歴史は刻まれてきた。その自然を越えた叡智と命の根源、全能の神こそが真実の神である。自然を見て神の創造の芸術を思う時、そこに詩が生まれ、讃歌が生まれる。

その感動が魂の叫びとなり、感謝となり、神の恵みをたたえる告白となる。恵をたたえる賛美、ゴスペルは神様は素晴らしい、偉大である、愛と誠実の神であるという賛美である。そこに神を心から崇める礼拝が生まれる。「ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌をうたおう。」(詩146編)

「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」(詩23:6)




今週のみ言葉  詩編1篇2,3節

「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡りくれば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」




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