5月3日 礼拝メッセージ
「力にあふれる命の恵」   ルカによる福音書24章44−49節

 イエスが常々弟子たちに繰り返して言われたことは「わたしはあなたがたといつも共にいる」ということであった。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい。…わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:1−3)

そして「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と言われている。確かにイエスはこの言葉を残して去っていかれる、しかし、イエスは「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。…この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。…わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ14:15−21)と言われている。

父なる神が遣わされる聖霊によってイエスは現実に弟子達を助け、イエスが教えられた真理のすべてを開示し、教えられることを約束している。

「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14:26)この事からルカによる福音書の最期では「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)ここで約束されるものはまさに聖霊であり、真理の聖霊、イエスの霊にほかならない。その聖霊こそが「力」としてまた“命”として表わされている。聖霊はイエス御自身の人格であり、イエス、そのお方の臨在を意味することになる。

 「都にとどまって、待ち望みなさい」という言葉に従い、祈っているとペンテコステの日に聖霊は祈っている弟子に降った。イエスと別れて10日間、不安と恐怖の中でイエスの約束だけに信仰と希望を持ち望んだ。聖霊が注がれ、聖霊を受ける体験を通して大きな変化を遂げる。

第一に、イエスが救い主キリストであることが確信となる。十字架の出来事、復活の出来事の意義が鮮明に理解する。信じていたことが現実として経験的に理解できたと言える。

第二に、十字架の贖罪の意味が罪赦された恵として実感し,喜びとなる。

第三に、その喜びは力となってイエスの福音を伝える力となる。

第四に、イエスの臨在を体感する。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて。」(ペテロT1:9)いることはイエスが共にいると言う経験から出てくる聖霊の臨在の証であるといえる。

第五に、聖霊の降臨の経験はイエスと共に生きる経験である。神に愛されている自分の確信と喜びは徹底した献身への道へと進む力となる。第六に、イエスの臨在の喜びはその福音を伝え、奉仕する喜びと力となる。

聖霊の満たしは、いつも主と共に生き、従い、歩み、神の国の宣教者とされる喜びである。
聖霊は神の恵みとして神を信じる人の喜びと力、命の源泉である。



今週のみ言葉  Tペテロ1章8節
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない
 すばらしい喜びに満ちあふれています。」




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