5月10日 礼拝メッセージ
「祝福のあふれる祈りの恵」 マタイによる福音書15章21−28節

 5月10日は母の日です。1914年アメリカの議会を通過して以来、5月の第2日曜日を母の日として、亡き母を追悼することから一歩進め、生きているお母さんに感謝の気持ちを捧げる世界的な行事が発足したもので、わが国では大正2年から全国キリスト教会の礼拝と、日曜学校で行われてきた。母性愛を表すカーネーションの赤い花は母が健在なる人、母が亡くなられた人は白い花を胸に飾り、互いに喜び合い慰めあうばかりでなく、東京では母の日大会が開かれ、全国の日曜学校ではお母さまを招待して母をたたえる催しをすることになっている。(‘55,5,2読売)特に一般的に社会で普及するようになったのは戦後である。

 人間一人ひとりは父母の存在から始まる。父母の愛、子の父母への思慕は時代と国境を越えている。世には例外的に不幸な親子関係もある。親子の情愛に包まれた家族は幸せである。どのような境遇にあっても帰る家があることは素晴らしいことである。聖書にある十戒の人と人との関係の戒めの第一に「父と母を敬いなさい」(出エジプト20:12、エフェソ6:2)とある。

一方、神と人の第一の戒め「他の神に仕えてはならない。」(出エジプト20:3)という言葉が基本となっている。創造主であり、命の根源である真実の父なる神以外に“仕える”即ち、“信頼”してはならないという戒めある。信頼は信じることであり、愛することでもある。信頼と愛は従う関係であり、助け慈しむ関係でもある。人間の父母、家族関係は時として崩れ、家族の近親間から悲惨なことが起こる。

聖書は「父母を敬え」と言うが「父母に服従」せよとは言わない。「孝行」という言葉は親を敬い、よく尽くすことではあるが、儒教的な社会や家の仕組みとして忠臣孝行は人間の支配関係を前提にして関係の状態がどうであれ、上下の関係で服従を強いることが背景にある。聖書の「孝養」は、親が親であるがゆえにどのような親子の状態であり、関係であっても親は親として「尊敬」し、「大切」にすることを言う。しかし、神の御心に反する両親の生き方に「従い」「要求を受ける」ことは出来ない。従うのは神であり、神の御心によって父母を「敬い」「孝養」を尽くすことになる。

マタイ福音書の15章にはカナンの女が娘の癒しのためにイエスに救いを求める記事がある。その女は娘が精神性疾患のために苦しんでいるので癒してほしいと言うのであるが、イエスはお答えにならなかった。弟子たちは激しく願い叫ぶので女を疎ましく思い、追い払ってくださいと言う。イエスは「イスラエルの失われた羊のために遣わされているのだ。」と言われる。女はなおも求める。そこでイエスは「子供のパンを子犬にやってはいけない。」とそっけなく言われる。なおも女は「ごもっともです。しかし、子犬も食卓から落ちるパン屑は頂くのです。」というとイエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの信仰のようになるように」と言われたときに病気は治ったと記録している。

第一に、カナンの女とは異邦人、神の選びの民でない人として考えられている。その母親が愛する娘の絶望的な病を癒していただくために、幾度となくイエスに願っている。どのようにイエスが言われようとも“願って”いる。欲するところは神の意志であるからである。「神にはできる」「神は愛である」「神は、どのような人の苦しみも見捨てない」という神への信仰がそこにはある。どのような関係よりも「信仰」が救いと解決を生む。女は神を正しい方と信じ、愛なる神の道に従って求めていた。

第二に、イエスが選民(家族)イスラエルの救いだけでなく、選民を通して世界に神の福音を使命とされておられることを聖書は告げている。(ヨハネT、2:29)失われた人、それは失われた家族である。その家族以外、異邦人にもイエスの十字架によって神の真実の家族となる、救いの道が示されている。
キリストによって現された真実の神を信じることによって、真実の家族の回復がある。そこに神の御心に適う真実の親子の関係が生まれ、幸せな家族があると約束している。
「イエス・キリストを信じ」「両親を敬う」ことこそ家庭の幸せの土台であるといえる。



今週のみ言葉  エフェソ人への手紙 6章2節

「『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。」




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