1月10日 礼拝メッセージ

「食べる楽しみと人生の喜び」ヨハネによる福音書4章31−38節

お正月の楽しみの一つはお節料理が用意されることである。幾つになってもお母さんが作ってくれたお節の味は懐かしく美味しいものである。どのような習俗からお正月の風習が生まれたのかよくわからないようである。新しい年を迎えるために大掃除をする。餅をつき、お節料理を作る。これは保存食でもあり、お正月三ヶ日は仕事は休み、家でも最小限食事の用意ぐらいである。働くことに罪悪観を持つよう原則的に守るのが普通であるようである。風俗や習慣の由来も長い時と共に変形し、その意味も忘れ去られて伝承される。古代歴史の発見はロマンに満ちている。

この度、奈良の明日香で魏の国から国造りの女王卑弥呼に贈られたという鏡が80個以上も発見されて奈良の耶馬台国発祥説が最有力になっていると言われる。これも3世紀後半ごろまでのことである。しかし、以前から日本の古代の謎として紀元前8世紀ごろに失われたイスラエル12部族が日本にまでいていたという研究がなされ神道の起源に大きな足跡を残しているという指摘もある。

伊勢神宮の遷宮、神道の様式、伊勢の町に並ぶ灯篭の紋が「ダビデの星」の紋と一致するなど、また、古来日本の祭りの意味不明の掛け声がヘブル語の意味となるというような解読がなされ、「みかど」(天皇)はガド族(“ミ”は複数表記、“ガド”はイスラエルの一部族の名称)の表記と解読できると言われ、旧約聖書の習俗や戒律が日本の古代社会に定着したという研究がされている。日本の歴史の発生伝承が旧約聖書にあるとする推理は、お正月の潔めを中心にした再生、新しい年が始まる、新しい人生が生まれる、このことを喜ぶ、祝い、讃える「安息日を守る」習俗の定着にあるように思われるのも歴史のロマンであろうか。

神の民としてのイスラエルにはモーセが神から受けた「十戒」のいましめから「週の終り」を安息日として「仕事をしてはならない」という戒めと、それに詳細にわたって安息日の習俗が出来てきている。それが日本の正月の習俗に酷似していることも不思議である。悠久の過去にはロマンがある。正月を年の始めとして祝うことであり、それは創造の初め、時、即ち、「日」を創造された全能の神がおいでになるという事実を感謝し、誉めたたえることを記念する。「いつまでも忘れない」で神の恵みといのちに生かされていること、神に愛されている自分を自覚し、感謝するときとすることである。一休和尚の「元旦や冥土の旅の一里塚、目出度くもあり、目出度くもなし」の一句にあるように、人生が空しいのに「何故目出度いのか」解らないということになる。真実の創造の神に出会って、初めて生かされている自分、愛されている自分の有難さを実感することになる。

 人は生きるために食べる。食べるために生きているのではない。生きるためには食べることが不可欠ではある。しかし、食べることが生甲斐であっていいのだろうか。トルストイは「人は食べるために生きるのでなく、生きるために食べるのである」と言っている。

ヨハネによる福音書の4章でイエス様はサマリヤの女との出会いを通して弟子たちに教えておられる。弟子たちが昼食を求めに行っている間に、サマリヤの女に出会い神の国の道を話されていた。弟子たちが帰って、イエス様に食事を勧めると「わたしにはあなた方が知らない食べ物がある」と言われる。

弟子たちはイエス様がすでに食事をすまされたのかといぶかると、イエス様は「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになったかたの御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われる。

ここで第一に、生きるのは「神の御心を行うことである」と教えておられる。御心とは神の国が今現実にあるように生きることである。平和と調和、真実と正義、人が真実の愛に生きる幸せを意味している。

第二に、「その業をなし遂げる」とは神の御心なる愛が生かされ生活に実現することである。正に、サマリヤの女の孤独と不安の心を見通して神の前に真実の自分を取り戻して、神の御心に生きることの恵みを知らせることにある。即ち、人々が神を信じて、神に従い、神の愛に目覚め、愛に生きることを分かち合うことを言っている。それこそが生きるすべてであり、生かされている喜びであることをイエス様は教えておられる。

この神の愛による平和と幸せの実現こそが「食物」、即ち、神を信じるクリスチャンの生きる喜びとならなければならない。生かされているいのちがそこにある。愛といのちと平和、とが約束されている。


今週のみ言葉  テモテへの手紙4章2節




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