1月17日 礼拝メッセージ

「人生のよい実りと悪しき実」マタイによる福音書7章15節―23節

誰しも人生が幸せで祝福に満ちたものであることを願うものである。イエス様は「偽預言者に警戒しなさい」と言われた。彼らは羊の皮を着て来るが、内側は狼のように貪欲であるというのである。羊の性格は温和でおとなしく、柔和で平和、穏やかな印象を人に与えると人は見る。狼はずるく、凶暴、貪欲、獲物を逃さない危険を感じさせる。表は紳士全として礼儀正しく、温和で誠実、その心の思いは打算と狡猾、貪欲と凶暴性を秘めているのが「偽預言者」であると言うのである。この数年、産地や材料の偽証が問題化されてきた。また、食材の期限切れの偽装や、再利用などの悪質なものもあとを絶たない。また、人間の欲望や名誉心などを利用して偽の投資やマルチ商法やねずみ講も絶えない。騙しのテクニックである。預言者は神に使わされた者で神の言葉を取り次ぐ人であり、神に至る救いの道、神の祝福を語り、また、神から離れる不幸と危険を警告する人でもある。
いつの時代も偽預言者は巧妙に迫り、撹乱し、人の欲望をまさぐり、幻惑させる。現代のインターネットの情報化は偽預言者のツールとしては最も巧みな武器となっている。個人の密室で不特定な人々と交流しながら誘惑に陥り、金品を詐取され、犯罪に巻き込まれることがあり、自ら欲情の餌食となり破滅の道をさまようことになる人が後を絶たない現状である。
第一に、イエス様は「よい木はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」と言われる。そして「実をもって偽預言者か、正しい預言者かを見分ける」と言っておられる。ここで言うよい「実」とは結果でなく、その「実」を実らせる「木」にある。見て、同じ木でも結果としての「実」は木の性質による。その結果とは人間の目や世間の目で見た良しあしでなく、21節にあるように「皆が天国に入るのではない」と言われることに鍵がある。天国に入る最も決定的なきっかけは「天の父」、即ち、「神の御心を行う者」であるとある。天国とは死後のことだけでなく、正に、今現在、キリストを信じることによって現実に神の御心に生きることを言っている。神の愛によって現実の中で生きる、生かされることである。そこで平和と調和と共生の喜び、希望に生きることになる。
第二に、だからこそイエス様は「主よ、主よ、御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡をおこないました」換言すれば「いい説教をし、施し、多くの人を救いに導きました。教会堂を建てました。数々のよい行いをしました」といっても「わたしはあなたのことを知らない。わたしから離れよ」と言われる。言うならば、その結果のあらわれでなく、内なる動機にある。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエルT16:7)と言われるように、根本は「神の御心にかなう」かどうかである。言いかえれば「主に喜ばれること」にかなうことに他ならない(ロマ12:2)。そして聖書は「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」(ヘブル11:6)と言う。神への「信仰」が鍵であって、見える結果でないというのである。人間は限りなくもろく、弱い、真実な意味で一人として罪を犯さないで人生を生き抜くことはできない。(ロマ3:10)生まれた時から生かされ、育てられ、支えられて生きるのが人の現実である。恵みに生かされている。神は、罪ある人間をキリストの贖いの犠牲で赦し、受け入れ、信じる神の愛による赦しによって生かされるものとなるのである。神に「信頼する」信仰、信頼して御心に生きるとき、その結果が如何なるものであれ神の祝福として希望といのちに至るものとなるというのである。
第三に、この世の正義は時として偽善化し、真実の神の愛、その御心を偽として葬る。キリストは不法者、偽預言者として十字架につけられた。人は、解らないで神を罪あるものとしているのである。神を信じていると言いながら、神の御心を知らず、拒み、反抗し、自己主張する人間の愚かさがキリスト十字架に現わされている。人は、赦されて生きる。神の恵みと愛を知って生かされる。決して自分の行為や、業績でなく、赦された自分であり、愛されているわたしであることに神の祝福と勝利の約束があると言える。「誇るものは主を誇れ」(コリントU10:17)。主の栄光、主の喜びが溢れる信仰の道を歩もうではないか。


今週のみ言葉 マタイ5章21節




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