1月24日 礼拝メッセージ

「主の教えられた祈り」  マタイによる福音書6章9−13節

どんな人でも挨拶として「ご多幸を祈ります」と言ったり、手紙にも書いたりする。祈ることは人間共通の心情のようである。誰に向かって祈るのかはっきりしないで漠然と祈ることはおかしいことではある。イエス様の弟子たちが「ヨハネが弟子たちに教えたように,わたしにも教えてください。」と言っている。当時、いろいろな律法学者や預言者たちの群れがあった。その一門ではその師の教えに従って「祈り」があり、それが教えの特徴を現わしていたようである。

イエス様が弟子たちに教えられた祈りは伝統的に「主の祈り」として、日常の定式の「祈り」として親しまれている。「主の祈り」は古来「福音の要約」といわれ、イエス様の示された福音の真理が凝縮されていると言われている。そこには神の性格やすべてのもの在り方や、神の愛と誠実への期待。罪ある人間とこの世の救い。平和と和解への希望などが要約されている。「主の祈り」を習慣的に繰り返すだけでなく、その祈りが生活で体験されて「イエス様の福音」に生きることになる。先ず、冒頭の「天におられるわたしたちの父よ」と言うみ言葉から学んでみよう。

祈りは神様への信仰の告白である。信じている神様のめぐみと偉大さへの賛美でもあり、生かされている感謝でもある。自分が賛美し、感謝し、告白しているように思われる。しかし、ここではイエス様が「祈り時にはこう祈りなさい」という言葉がある。「天におられるわたしたちの父よ」の祈りは、主が「祈りなさい」と言われた「祈り」であって差し出された恵みの祈りであると言える。

第一に、神と言う言葉はない。「父」と言われている。神様との関係は「父」と「子」の関係であるというのである。父と子は存在といのちの根源を表している。神が父親に似ているからであろうか。世の父親は時として不完全である。家族への愛に十分こたえることが難しいこともある。神は父に似ているのではなく、真実の意味の「父」であるというのである。子を愛し、子に希望と目標を与えられる神であり、責任を持って下さる方である。

第二に、「天におられる」父であることは、決して我々を超越して、全く手の届かないところにおられるというのではない。不完全な、欠落したこの世で生きるわれわれをいとおしみ、見守られる「愛なる神」である。「主がすべての災いを遠ざけてあなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」(詩121:7,8)

第三に、「わたしたちの父よ」と祈る、祈りは孤独な祈りではない。「われわれ」とは「主の祈り」が「家族の祈り」と言われるように、主に召された神を信じる兄弟姉妹である家族の祈りである(テモテT、3:15)。一人で祈る時も、「われらの父よ」と言う時、それは兄弟姉妹と祈ることを意味する。その兄弟姉妹こそ「教会」の交わりである。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:19,20)クリスチャンはどんな時でも孤独ではない。「われらの父よ」と言う祈りのあるところには遠く離れていても共に祈る家族があることを忘れてはならない。ここに可能性と希望が約束されている。

「われらの父」に祈る祈りこそが、クリスチャンの生活と生涯のすべてが神に嘉せられることになり、祝福の鍵となる。日常、何気なく、無意識になっている習慣的な祈る言葉の重みと、大切さをもっとしっかりと自覚して祈れる喜びと特権を感謝し、真実の祈りの生活を歩もうではないか。



今週のみ言葉 エフエソ2:19




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