1月31日 礼拝メッセージ

「信仰から生まれる祈り」 エフェソの信徒への手紙6章18−20節

神様を信じるときに祈りの生活が始まります。祈りは信仰のあかしであるのです。主イエスは弟子たちに「祈り」の基本ともいうべき「主の祈り」を教えられました。神に祈る時に「天におられる父」から始め、そこに神様と人々との関係を「父と子」の関係を通して根本的なクリスチャンの在り方をお示しになっています。今日は、その第一の祈りの言葉「御名が崇められますように」という祈りを学ぶことにします。

祈りは賛美で始まると言われるように「御名が崇められるように」ということは「御名が讃えられるように」と言う意味でもあります。確かに、祈りは礼拝であり賛美と感謝、信仰の告白なのです。神様の御名をすべてのものが崇めるようにということは「御国が来る」ということと「御心が行われる」ことに確かに繋がっています。しかし、「崇める」という元の言葉は「聖なるものになる」(ハギアスセイトウ)という言葉であるのです。

そもそも「聖」は、神様の力と救いを現わすと言われてきました。神の力が支配される。汚れと罪に満ち、悲しみと混乱にある現実に神の聖なる思いが満ち、その力と救いが現わされて神の御心にかなう「聖め」が実現するならば、生きとし生けるものは神を賛美し礼拝することを示しています。実は、現実の救いと聖めは神様がして下さるのであって神様のめぐみの業であるのです。恵みは「聖霊」の働きであり、神様の働きです。「誰でも聖霊によらなければ『イエスは主である』とは言えない」(コリントT、12,3)、「聖霊によって『アバ、父よ』と呼ぶ。」(ロマ8:15)とパウロは言っています。

第一に、祈りは自分がその祈りで生活のなかに「聖なる神の業」が現わされるということの基本に神様のめぐみとしての神の願い、神の祈りがあるということです。正に、神の祈りとは御子イエスのとりなしの祈りであるのです。イエスは受難を前にして「この苦しみを取り去ってください。しかし、この時のために来たのだ。“父よ、御名の栄光を現わしてください。(御名が崇められますように)」(ヨハネ12:27)と祈っておられるのです。正に、主の祈りは主自らが祈られた祈りであるのです。

この祈りこそはすべての人のための十字架の救いの祈りであるのです。祈りは人間の必要を求めて、その要求が満たされない時にはほかの道を求める祈りではないのです。徹頭徹尾、「御名」即ち「主の御心」がなるようにと祈る祈りであるのです。だからこそ、福音と宗教は違うと言われるのです。宗教は人の願いから生まれ、人の思いでかえられます。キリストの福音は神様のめぐみであり、賜物(カリス)です。人にとって最善にして唯一無二の救いの道を神様が差し出されているその道を生きることを意味するのです。

第二に、「御名が崇められる」という祈りは、御名によって生かされることを意味します。名前は人格を表します。名前は、その名前の人その人の力と権威をあらわすことになります。国家の主権はその国を納める王や大統領の名によって法は制定されることになります。王の権威がなくなる時、その名は力を失うのです。主の祈りの「御名」は言うまでもなく、われわれが「父」と呼ぶ「神」であるのです。

われわれが神様を「父」と告白するときその絆はいのちと愛に結ばれる関係にあるのです。そして、私たちは子として「父なる神」と告白するとき、「父」の名にふさわしい「子」として生きることになります。「御名を崇めるられる」ことは「父の名を汚さずに生きる」父の御心に生きるのです。だから日々の歩みは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ロマ12:2)

第三に、主の祈りは、実は、主の願いであることを学びました。聞かれる祈り、聞かれなければならない祈りは、正に、神の祈り、願いであることが、「御名」を崇めることとわかりました。神様の願いは、「神の御心」が地にあふれ、その「御名」が当てられることです。神様の聖、愛と正義、善意と慈愛が、平和、和解、融和、共生、共助となって人々が御心を生きて神様の名、「父」としての栄光が輝くことを願う祈りであるのです。

 

今週のみ言葉 エフェソの信徒への手紙5章の10節




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