2月21日 礼拝メッセージ

「見えざる祝福の根」 マタイによる福音書25章14−30節

日々の生活を幸せに生きたいと願うことはすべての人の思いではないでしょうか。浮草のようなひと時の幸福感は時と共に夢のように過ぎ去るのです。どのような時にも目標を目指して仕事に打ち込み、希望と喜びをもって生きることこそが人の幸せであると言えます。

人には見えるものにとらわれて自分を見失う人と見えないが心に思うことを大切にして生きる人とがある。見えることにとらわれることより、見えないが人間として最も大切な「信用」される宝を大切にし、その宝が見えないが人の「誠実」や「忠実」に裏付けられた中から祝福の実が実ると言えます。そこに祝福の人生の根があるのです。

マタイによる福音書25章に「タラントンの譬」が語られています。この短いたとえの中に人生の基本的な生き方と祝福が指摘されているのです。ある人に3人の僕があり主人が長い旅に出るのでその資産を渡して管理させるというものです。一人に5タラントン、一人に2タラントン、もう一人に1タラントンを預けたのです。前記の2人は主人を喜ばせようと工夫して資産を活用し倍のもうけをして主人に喜ばれます。

あとの1タラントンを預かったものは主人の厳格な性格を心配して、資金をつぼに入れて土を掘って安全に隠して主人に渡します。主人は前者の二人を「忠実で、よくやった。さらに多くのものをまかせようと」とほめます。しかし、あとのものには「怠け者、悪い奴」と言って叱責して追い出すのです。この物語は単純ではありますが、多くの教訓を教えています。

第一に、主人が“僕の力に応じて”資産を預けるというのは、すべての人の人生は、神から預けられたものであるということです。預けられた資産の量は違いますが、神に喜ばれる生き方か、神の御心にそぐわない生き方かを指しています。確かに、主人は預けた資産の管理と使用を指示していません。人生の時と機会は各自で自由に選択できるのです。ここでは資産だけでなく、人の命、即ち、人生そのものが神にゆだねられていると考えられるのです。時間は命、金は命、すべてのものが神に喜ばれる使用を意味しています。「忠実な良い僕、よくやった。わたしの喜びである」と言われる。だからこそ、どのようなことがあっても自殺は最大の罪になるのです。神の悲しみです。人生に与えられている資産も健康も時間も「神に喜ばれることを目標」に生きることを教えているのです。

第二に、主人に「怠け者、悪い僕」と言われた人の怠けることは主人の厳格さを恐れて「臆病」になっているのです。未来は誰にも分りません。未来は希望を信じることによって道が開けてくるものです。主人を思い、主人の喜びを願う、信頼から生まれる「愛」が人に希望を与得るのです。「信仰と希望と愛」はいつまでも祝福の実を結ぶのです(コリントT13:13)。信頼がないところには誠実も忠実も生まれません。疑いは、憶測を生み、憶測は、不安を生む。不安は消極的なり、臆病となる。神を信じることはなににも勝って祝福の土台となります。

第三に、「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(25:29)持っている人、それは信頼と期待、目標、希望を持っている人である。その思いや願いにまさって神は答えられる。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイ6:8)

第四に、このたとえにない部分として、良い忠実な僕が、資産運用で成功したことで褒められている。しかし、主人を思い、その喜びにこたえようとして失敗したときにはどうかということは示していない。ここでは「良い」ことは「忠実」であった。それは主人の期待にこたえようとすることであった。結果は元手までもなくすこともあろう。その時にも主人は「忠実」と言うのであろうか。「忠実」は「結果」ではなく、動機である。主に忠実であるならば、その結果がどうであれ、その「結果」を通して新しい希望と祝福の基として下さるのがキリストの示されていることであると言えます。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ8:28)

 

今週のみ言葉 
「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(黙2:10)   




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