2月28日 礼拝メッセージ

「ゴスペル福音の光に生きる」 ヨハネによる福音書8章12節

この頃はゴスペルといえば躍動感や心を揺さぶるリズムで多くの人が愛好されている音楽です。ゴスペル(Gospel)は“福音”と訳されていて“よき訪れ”“目出度い知らせ”という意味でイエス・キリストが人々に神の国と救いの道を示されたことを言います。キリストの福音は人々を希望と平安、喜びをもたらす救いの道であるからです。

キリストは「光のうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35,36)と言っておられます。「暗闇」の中を歩く人は「自分がどこに行くのか分らない」と言うのです。暗闇は不安を表し、行動を鈍らせ、迷わし、戸惑わせます。「暗闇」は罪と罪悪の象徴なのです。暗闇は象徴的に闇の力、悪魔の支配を意味します。暗闇、即ち、悪魔の支配する闇の中を歩くときには人はどこに行くのか分らないことになります。

光のないところでは「自分がどうしてよいか分らない」ということは手探りで自分の思い、願い、欲望をなんとか実現しようとする姿であるのです。暗闇では人を見ることも理解することもできません。人は心を真実に結びあうことはできなくなると言えます。これは罪悪に満ちた現実のこの社会を示していることになります。「光の子となるために、光を信じる」ことを勧められています。

キリストは「「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)と言われています。「世の光」とは暗闇の世を照らす光、「救いの光」です。「あなたの御言葉は、わたしの道の光わたしの歩みを照らす灯。」(詩119:105)イエスは神の子として生まれ、神の愛と救いを教えつつ、十字架につけられ人々の闇、即ち、罪のために贖いの死を遂げられた。キリストの言葉こそは人に平安と希望を与える光の道であるのです。

その光は、第一に、暗闇を照らす真実の光です。(ヨハネ1:9)暗闇を照らす時、隠された現実の醜い罪悪が明白になります。人々は反省し、罪を悔い改めることになります。

第二に、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:4,5)キリストの光は、キリストの教え、言葉から生まれ信じる人々の「新しい命」となって人を生かすことになります。闇の人から光の人へ変えます。目的も希望もない、ただ生きている人の心に「生かされている自分、愛されている自分」を生きることになるのです。信州の田舎から政治家を目指して上京した青年がいました。地元の政治家の書生になれました。

しかし、汚ない政治の世界に疑問を持ち、生まれつきの吃音で言うことも自由に話せない自分に絶望的になっていました。社会に絶望し、自分にも絶望していました。そのような時、キリストに出会いました。彼は心の闇とこの世の闇、即ち、罪悪からキリストの光、救いの光が差し込みました。心の救いはキリストの愛、福音ゴスペルにあると確信してクリスチャンになりました。そして牧師になることを決意しました。
毎日楽しい学びの日々が続いていましたが、吃音はどうにもならなかったのです。しかし、彼は、神に祈りました。そして不思議なことが起こったのです。吃音がいつの間にか治り普通に話すことができるようになったのでした。神は生きておられることを体験し、その生涯を牧師の仕事をやり遂げることができました。

第三に、キリストの光は、キリストを信じる人を「世の光」とします。「あなた方は世の光である」(マタイ5:14)とキリストは言われています。キリストの光、命の光、希望の光、救いの光としてわたしたち一人一人の人生を充実したものと作り変えて下さるのです。キリストは光源としてわたしたちの心に神の愛と希望の光を与えてこの世の光として下さるのです。光は人を引き寄せ、交わりを生みます。そこにはキリストの平安に生かされる約束があるのです。

 

今週のみ言葉 ヨハネによる福音書1章9節




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