3月7日 礼拝メッセージ

「一致の力と喜び」 ヨハネ17章20−23節

祈られていることは幸せであると言えます。祈りは理性の世界を超えて不思議な力を持っています。祈りは信仰と切り離して考えることはできません。信仰のあるところには祈りが生まれます。ヘブル書の11章の1節には「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と言っています。信仰は未来のことを確信して、今、信じることを言います。それだけではなく物事には遠い未来に起こることもあるが、今ただちに起こらなければならないこともあります。 

ヨハネによる福音書の17章はイエス様の最後の祈りとして知られ、大祭司の祈りとも言われます。最後の祈りの意味することは最も大切な、根本的な祈りともいえるのです。それはまた「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにもお願いします」と祈られている。弟子たちのためだけでなくやがて弟子の宣教の言葉によってクリスチャンが生まれ、教会が形成される人々のために祈っているのです。

その第一に、祈られていることは「「すべての人を一つにして下さい」ということでありました。それも「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように…すべての人を一つにする」ことであったのです。三位なる神が、それぞれの位格をもちながら、切り離すことのできない本質において同一性をもって存在されるように一つにすることであると言えます。それはキリストを信じて贖われ、神の命としての聖霊に生かされることになります。聖霊に生きることはキリストによって現わされた「神の愛」に生きることを言います。「すべての人を一つにする」ことは「キリストの愛に生きる」ことなのです。そこに神が約束される「一致」が生まれるのです。

その第二に、「彼らもわたしの内にいるようにして下さい」という祈りです。キリストによる「神の愛」に生きるようにされたわたしたちではありますが、依然としてパウロが言っているように自分がしていることは分らなくなるのです「自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ロマ7:15)。まさに現実は「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(ロマ7;18,19)のです。だからこそ「わたしの内にいるように…」「わたしの内」とは、「キリストの内」のほかなりません。「キリストにあるように」と言う祈りが不可欠であると言えます。「神の愛」を実践することはキリストを信じる、信頼することによってキリストの助け、聖霊に助けによって実現できると言えます。それはまたキリストにあって日々悔い改め、赦し続けられ、守られること、即ち、キリストの愛に生きる実践が、現実の中で「一致」を生み出し、体験させられるからです。

第三に、「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」(ヨハネ17:22)一つになるために「栄光」を与えたと言われています。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」(ヨハネ17:24)と言われえています。「一つになる」ことは「主の栄光」が現れるためであるというのです。神様の素晴らしさ、偉大さ、めぐみに満ちたかたとしての証を、信じる人々を通して現わすためであると言えるのです。

「一致」には限りない力が生まれます。その力は相互扶助となり、協調となり、共助となります。キリストの愛は「真実の一致」を生み出し、力となります。そして「一致」は平和の本質でもあります。一致のない平和はないのです。愛から生まれる寛容と忍耐が、愛のゆえ平和の力となるのです。 キリストの教会は神の愛が生む一致によって平和と希望、神の御心を証することになるのです。



今週のみ言葉 ロマ書12章10,11節 




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