3月21日 礼拝メッセージ

「廃墟に築く希望の夢」 ロマの信徒への手紙8章18−25節

現在、バンクーバーでは冬季オリンピックに続いて「パラリンピック」が開催されている。パラリンピックの名称は、下半身不随paraplegiaと、オリンピックOlympicを組み合わせた造成語でだと言われている。スキーの豪快な大回転、ノルデック競技やホッケーの生き詰まる熱戦 、どの試合を見ても感動がこみ上げてきます。聴力障害や知的、精神障害者を除いて身体的な障害のある人々が参加できるようです。身体的に支障のない人は毎日の生活の中で字を書き、散歩し、大きな荷物を運ぶことなど当たり前のようにしていますが、突然、手足に障害がおこり、視力がなくなるときの悲嘆は計り知れない苦悩だと思います。人は苦しみや悲しみに陥るとき失望して自失してしまいます。絶望のあまり気力を無くしてしまいます。片足、片腕をなくしたり、視力を失った苦しみは経験した人でないと分らないことです。そのような環境にありながら、希望を持ってパラリンピックに出場して考えられない業を成し遂げる姿は全ての人に感動を与えます。メダルを得ることも素晴らしいことですが、参加者一人一人の心の奮起を思う時、感動しない人はいないでしょう。

聖書には「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。・・・わたしたちは希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」)(ロマ8:18、24,25)と記しています。この記事は現実の虚無的な人生がそのまま終わるのでなく神様は不完全で、矛盾に満ちた現実であっても、必ず、神様の国を出現させ、神様の栄光が満ちる幸せの完成を約束しておられることへのメッセージであるのです。「現在の苦しみ・・・取るに足りない」と言えるのは愛と聖、善にして命の源なる創造主なる神様は、必ず、神を信じ、期待し、その御心に従う人々に「栄光」を現わして下さると約束しているからです。人間は、創造の初め「神に似せて創造された」(創1:27)とあり、備えられた自然を「幸せ」のために工夫して用いるようにされているのです。どんな人でも「よくなろうとする思い」があります。そこに創造の業がゆだねられ、生活が向上するようになる。それが人間固有の「教育」であると言えます。自分を育て、未知の世界に可能性を開くように神は人に希望を持って生きるようにして下さっています。

一見、むなしく、はかなく、そして絶望的に見えるときにも「心」の中でできると夢見るとき、全能の神によってそれが希望となり、工夫となり、努力となって道が開けてくるのです。作家の三浦綾子さんは戦中、小学校教師でありながら肺結核になり退職して、夫君の助けで多くの著書を残されました。病弱な体を次々と病魔が襲いました。「病院のデパート」とさえ言われるほどの過酷な人生でした。奇跡的な夫君の愛に支えられた人生でしたが、その「病苦」がキリストにある神の愛に支えられ、目先でなく永遠の命の平安に支えられて苦難と悲しみの中にありながら人々を慰め、支え、導き、勇気と希望を与えてこられました。逆境や苦難を「宝」として「栄光」を表す人生を歩むことができるのは本当に素晴らしいことです。もう一度この聖書の言葉を心に留めようではありませんか。

「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ロマ8:24,25)「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ5:1−5)

聖書         


今週のみ言葉 ロマの信徒への手紙5章2節




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