3月28日 礼拝メッセージ

「救い主イエス・キリストの入城」 マタイによる福音書21章1−11節

受難週の最初の日曜日はイエス様がエルサレムに驢馬に乗って入城されることを記念する「棕櫚の日曜日」といいます。マタイ伝では木と記されていますが、ヨハネ伝12章では「棕櫚の木」(ナツメヤシの木)となっています。人々がイエス様が入城されるのを見て棕櫚の枝を振りながら「ダビデの子にホサナ」と叫びながら迎えたことによります。また、この日は「イエスのエルサレム入城の日曜日」とも言われています。そしてこの一週間は毎日、エルサレムで最後の教え、神様からのメッセージを人々に告げられるのです。木曜日、弟子たちと最後の食事を共にされ、受難の道に進まれることになります。金曜日にさばきの座につかれ、日曜日にイエス様が予告されていたように復活の事件が起こります。

復活は永遠の命への証としてキリスト教信仰の基礎的な出来事になります。その礎への信仰の準備として「棕櫚の日」は大切なメッセージが語られているのです。

ロバに乗ってこられたイエス様を不思議なことに「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」と群衆が叫んでいるのです。何故このようなことが起こったのか、その時は弟子達には理解できなかったのですが、その後、イエス様が復活されるに及んでゼカリヤ書9章の9節の「お前の王がおいでになる。柔和な方で子ロバに乗って・・・」という預言の言葉を思い出します。それからイエス様は威厳をもってエルサレムに入り、神殿の境内で商いをする屋台を倒し、不敬虔な人々を追い出されるのです。

第一に、神の選民としてのユダヤの人々の礼拝の場、聖なるはずの町が神の御心から外れている現実をイエスは改革されようとしたのです。選民の証として与えられた人の生きるべき命の道、律法がゆがめられ人を生かすのでなく、完全に守っているという幻想が人を傲慢にし、差別と憎しみ、卑下と侮蔑を生み、憎しみと対立を生んでいたのです。律法の真実、神様の御心の中心は「愛」と「聖」です。イエス様は人の弱さを理解しながら、罪の根源と人の愚かさに厳しく立ち向かわれているのです。ファリサイ派に代表される偽善性です。一貫してイエス様は罪を教え、罪を憎み、罪を悔い改めるときこそ神の御心を知ることができることを教えられました。それが、神の愛であり、憐れみ、優しさです。「柔和なる方」として人々の弱さを理解し、人々の再生の道を示されたのです。

「柔和」は「優しさ」でもあるのです。「優しい」とは「人偏に憂える」と書きます。人を憂うることができる。心配する。思いやる。助けようと努力する。というように広がりを持つ言葉です。イエス様は人間の不幸の根源を指摘されているのです。神様はその悲劇的な人間のために救い主イエスを遣わされていることを物語っています。

第二に、王としてのイエス様がロバに乗って入城された。何故ロバなのか。ロバは象徴的に愚鈍、鈍感、鈍間(のろま)、バカの象徴であるのです。イエス様はロバを必要とされえているのです。人の目で卑下される方法を用いて下さるのです。それは社会常識では理解できないかも知れません。神が僕になって人に仕える姿があります。使徒パウロは「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(コリントT1:27,28)と言っています。だからこそイエス様が現わされた神の愛、即ち、十字架の道、すべての人が命に至る道を生きるとき、ロバがまた愚鈍のように忠実に重荷を負い、従い、人を助け、人のために生きる道をイエス様の道とし生きる尊さがあります。

第三に、イエス様が示された「棕櫚の日」の御心が金曜日に始まる裁きの意味です。そして十字架につけられながらも赦し続けられたイエス様の「柔和」即ち「憐れみ」を思うのです。神を殺す罪悪を自覚しないで御子を十字架につける愚かさ、その愚かさを憐れみ、祈り、執り成される主の姿、この出来事をいつも、絶えず思い続け、慕い続けることによって神の愛と永遠の命への道が確信となると言えます。



今週のみ言葉 テサロニケT、4章17節
「わたしたち・・・いることになります」





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