4月4日 礼拝メッセージ

「死の克服と永遠の命の希望」コリントの信徒への手紙U4章16−5章5節

4月です。桜が満開です。枯れ木の冬も緑を吹き返し、新しい命がよみがえる春です。復活祭を迎え、永遠の命の尊さを改めて感謝します。創造の初め、世界を創造して神様は「はなはだ良い」と満足され、人に「それらを支配せよ」と言われました。しかし、人の支配する世界は強者が弱者を支配する戦争の歴史を繰り返しています。人のいるところに争いが続き、平和を求めながら憎しみと不信が不安と恐怖となっています。人の生涯は生老病死で終わります。儚さとむなしさ、絶望と不安を持って人生を終えます。

しかし、神は栄光を表すために世界を創造されたのです。神の栄光は神のみ思い、神の愛が満ち溢れ、すべてのものが神様を讃えることを言います。聖書は言っています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。これは不安と絶望の世界に希望と平和の道筋を現わすために「神の愛」が真実であることを示しているのです。キリストは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11;:25)と約束されています。

確かに、現実は全ての人の人生は死で終わります。しかし、使徒パウロは「わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(コリントU4:16)と言っています。ここでは一人の人を「外なる人」と「内なる人」に分けています。「外なる人」はからだを指しています。人は、肉体と内なる霊、精神でなっています。肉体は物質ですが精神や霊は不可視です。それは決して物理的に証明できるものではありません。

その精神や霊も肉体を通して現実に存在することになり、それは不可分であると言えます。使徒パウロは「わたしは落胆しません」と言います。その理由は「外なる人」は衰えても「内なる人」は日々新たにされていくというのです。確かに時と共に「外なる人」、即ち、体は衰え、失せていきます。「落胆」は失望と挫折、不安と戸惑いです。その時、人は、人生を悔み、のろい、怨むことが多いのです。 

しかし、それでも「落胆しない」のは「内なる人」が日々新たになる。落ち込み、苦悩のはざまで失望しないというのです。「内なる人」霊なる人、神を信じ、神を認識する人です。どのような外なる変化があっても、そこには変わらない命があるのです。

人生の一時の患難は比べられない「永遠の栄光」のめぐみをもたらせてくれると約束されているのです。(コリントU4:17)生活は正に戦いです。そこには様々な矛盾があります。それはやがて終りが来るのです(コリントT15:24)。聖書は「最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」(コリントT15:46−49)天に属するとは神様との関係に生きる存在です。神と共に生きることです。「神の国は見える形では来ない…実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」(ルカ17:20,21)「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(ヨハネT4:12)内なる人とは神の命に生きる人であることです。

それは変わる外の人に対して変わらないのです。外なる人の変化があっても、内なる人は日々に新たに神様のめぐみと可能性に生かされ死を通して新しい栄光の変わりなき復活の命、永遠の命に生かされることになります。クリスチャンは内なる人のゆるぎない命に生かされているからこそ、「常に喜び、すべてに感謝できる」(テサロニケT、5:16,17)命に生かされているのです。死ぬ存在でありながら、不変の命、永遠の命に生きる希望の人生を贈る勝利者であるのです。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(ヨハネT、5:4,5)




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