4月18日 礼拝メッセージ

「新しい時代のめぐみと希望」 使徒言行録1章3−1節

 「新しい」という言葉は人を引き付ける魅力があります。鮮度の新しい魚や野菜は人を引き付けます。新しい家や建物、自動車は多くの人の関心を引き付けるものです。日本では昨年、半世紀以上支配してきた保守政党から、民主党に政権が代わりました。大きな期待は当初の70%の支持率が、30%を切るようになりました。マスメディアの過剰な報道が民衆を混乱させているきらいはどうしようもない嫌悪さえ感じさせることもあります。現実には毎日のように幼児虐待の悲劇が起こっています。年間3万人以上の自殺者があり、1日80人が自殺していることになるようです。不安、混乱、絶望が漂っていると言えます。友愛といのちが叫ばれながら明るい未来が見えないのです。

使徒パウロは「今は、めぐみの時、今こそ、救いの日」と言っています。この「今」は「新しい恵の時」と言えます。今までになかった、経験したことのなかった「恵」と「救い」の時を紹介しています。イエス様のメッセージは「神の国は近づいた」でした。その神の国はイエス様が十字架にかかり、復活されることを通して証明されたのでした。弟子たちは現実の問題として復活を信じられなかったのです。しかし、主は弟子たちに様々な形で現実に現れ、行動を共にして語り、聞かせ、教えの確かなことを証されたのです。

今日お読みいただいた使徒言行録1章の前半には復活されて、ご自分が生きていることをいろいろな証拠をもって弟子たちに現わし40日間にわたって神の国について話されたとあります。弟子は現実の世相が、ローマの支配下にあって重い税制、様々な重圧に苦しんでいた。そのローマと癒着する政権を幾度となく打倒しようとする内乱が起こり、不安が渦巻いていました。「神の国」を語り、その生きるべき道を教えられたイエス様に人々はイスラエルに伝わる「神の国」の実現の約束を信じ、イエス様こそが新しい政権を樹立して救われると思っていました。しかし、現実、イエス様は為政者の巧妙な対応の中で十字架に架けられたのです。理不尽な権力の策謀にイエス様は神様の愛の真実を示し、人は神の愛でこそ真実に生きることを教えられたのです。それは現実の移りゆく、その場限りのまつりごと(政治)ではなく、永遠に変わらない神の国の真理を示されたのでした。人はどのような時代も変わることなく真実の平和と安定、安心を求めました。それこそが「神の国」であるのです。今でも世界の人が求めているものです。

イエス様の十字架の出来事は、正に、新しい時代の始まりであったと言えます。それが神の御子が十字架にかけられる出来事を通して示されたのです。その中心が「恵」です。めぐみは憐れみであり、祝福であります。それこそ「神の愛」を現わしているのです。命と存在の根源としての神様は創造の目的は御自分を現わし、その栄光を表すことでありました。その中心こそは神様の愛を示すことにあったのです。神を忘れ、自己の欲情に翻ろうされ、与えられた知性で豊かさを追求して環境を破壊し、豊かな富は知性の堕落で虚空の中に全世界を絶望の中に陥れてきています。それが今までの時代です。すでに、イエス様は真実の神の国、どのような時も変わることなく、いつも求める人々に新しい時、「めぐみ」の時を開かれているのです。それが十字架の出来事です。どのような時にも神様を離れて生きることは解決のない混乱と絶望の連続であるのです。それを聖書は「罪」といいます。古いとは罪ある現実です。新しいとは神を信じ、神の愛に生きる希望と平安が約束されるのです。

イエス様の復活の出来事は、正に、弟子たちに不動の信仰の確信を与えるためであったのです。神の国は永遠に変わらないことの証であったのです。イエス様は「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける」(使徒1:8)に約束されました。この「聖霊」が降るときにこそ、弟子たちはキリストのめぐみと救いの意味を確信できるようになるのです。聖霊とはイエスの霊であり、人格でもあります。神様の真意が人の心の中で新しい時代に生きる人として歩ましめる新しい命であるのです。そこにキリスにある交わりと愛の実践が生まれ、それこそがキリストの教会の人々の姿であると言えるのです。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントU5:17)「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2:19−21)


今週のみ言葉 

エフェソの信徒への手紙1章14節




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