4月25日 礼拝メッセージ

「キリストの恵は愛と力」 使徒言行録2章1−13節

人間は生きる目標と教えられてきたことが分らなくなるとき、失望と混乱の中で自分を見失うことになります。イエス様の11人の弟子たちやイエス様に従ってきた多くの人々はイエス様が十字架にかけられ、約束されていた復活の事実が実感できなくて迷っていた。しかし、40日にわたって多くの人々にイエス様は現れ、復活の事実を証しされる出来事が続き、弟子たちを中心にその事実が確信されるようになります。しかし、弟子たちは、その事実がどのような意味を持つのかはっきりとわからなかったのです。かねてよりイエス様は十字架と復活の出来事をしっかりと理解して確信するために「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)「証人としてあっち上がるために、都に留まって約束している“力”を受けなさい。」(ルカ24:49)と言われていました。この“聖霊”は正にイエスがキリストであることを理解する“力”として与えられると言っているのです。

使徒パウロは「 神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」(テモテT1:7)と言っています。使徒行伝2章には都に留まって「力」、即ち「聖霊」を受けよと言われた出来事の記録が記されています。120人の弟子たちがエルサレムのあのヨハネと言われたマルコの家の二階で祈り待ち望んでいると不思議な霊的経験と共にそれぞれが違う“知らない言葉”で祈り始めるという現象が起こりました。ペテロが導かれて出来事の真意を神の約束の出来事として旧約聖書のヨエル書からその真意を解き明かすのでした。

そこで初めて人々はイエス様が救い主キリストであり、すべての人が神様の前に立ち返るために罪の贖いとして十字架にかかられたこと、悔い改めて永遠の命の真実を確信するようにと勧めたのです。初めて人々はキリストの真意を知り、活けるキリストを経験し十字架の偉大な“神の愛”を体験するのでした。その愛は神様が御子イエスを犠牲にして、救う愛であったのです。キリストの愛に生きる人に変えられた人々は、キリストの言葉に従い、神様の栄光を現わす生き方の変えられるのです。そこにキリストの教会が生まれることになったのです。聖霊は神の臨在であり、聖霊を受ける人々を通して神様の御心を現わされることになります。

「聖霊」は、正に「力」と「愛」と理解する「思慮」を下ったのです。「聖霊が降ると、あなたがたは“力”を受ける。…わたしの証人となる。」(使徒1:8)と言われています。先ず、第一に、“力”は“経験”したことの意味を“理解する力”であるのです。経験は生けるキリスト、復活されたキリストに出会うことです。そしてその意味、メッセージを理解することが出来たことに他なりません。空論でなく、事実、正に、自分が体験したことに基づいています。第二に、聖霊の力は神の中心的なご性質である「愛」を具体化する力です。その経験は、神が人を愛された愛を体験させられ、感動する経験です。その感動は神の素晴らしさ、その愛の大きさ、深さ、どのような罪深い人も救い解決し、更生させる力であるのです。その愛を経験するとき人々に神の愛と恵みを伝える人に変えるのです。それが「証人」とされる恵みであるのです。世界への宣教の情熱の源泉がそこにあるのです。

第3に、キリストの愛の恵は、感動となり、力となります。単なる、感情でなく、そこには深い“思慮”知性にもとずく理解があります。キリストに出会う時に経験する感動は知性として“思慮”としてわきまえる原則を与えるのです。知性のない感情は混乱となります。感情は知性によって秩序を与えられます。感情のない知性は人間性を失った虚無的な無気力になります。聖霊は人の心に“思慮”を与え、分別の裏付けをもった確信となり人の全存在を動かす「力」、「意志」となるのです。

聖霊によって神の子は生まれ、生ける神を経験し、キリストにある神様の愛の交わりが現実の生活の中に「神の国」天国を現実に証するようになります。聖霊が働かれるところに生けるキリストの教会があるのです。聖霊を求め、聖霊に満たされ、聖霊に従いたいものです。「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:25)


今週のみ言葉 

使徒言行録1章8節




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