5月2日 礼拝メッセージ

「素晴らしきキリストの交わり」 使徒言行録2章36−47節


平和と交流は切り離して考えることはできません。キリスト教は愛の宗教、言葉の宗教、交わりの宗教、いのちの宗教などと言われることがあります。「愛」「言葉」「交わり」「いのち」は別々のものでなく、それぞれが「人間」が生きていくための必須条件です。愛のない生活は考えられません。また交流のない生活もあり得ません。ましてや愛のない「言葉」は生活が成り立ちませんし、「言葉」がなければコミュニケーションはできず、「交流」は生まれないのです。どれがなくても生活がなり立ち得ないといえます。そして、その三つをつなぎで「いのち」が生まれるのです。その「つなぎ」こそが信頼であり「信仰」であるのです。

五旬節に弟子たちが経験した不思議な経験が、約束されていた聖霊の経験であることを使徒ペテロはとっさに旧約聖書の預言者ヨエルの言葉から教えられ「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。」(ヨエル3:1)から始め、イエスが復活され、十字架で死なれたのは人の罪の赦しのためであり、イエスこそ救い主、キリストであると宣言したのでした。(使徒2:22−38)聖霊によって明確なイエスの使信が明らかにされたのです。

その第一は、イエスは「救い」の道を開かれたのです。この「救い」とは不幸と混乱の根本的な原因である罪、神様との交わりを失った悲劇からの救いを指しています。神の愛の真実を失った悲劇です。神はどのような罪も真実に「悔い改める」とき、赦して下さるのです。神の愛を信じることこそが、神との和解、「交わり」の回復であるのです。

第二に、救い、即ち、「交わり」の回復は神様の「愛」を受け入れた結果であるのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネT4:9,10)神は、人が生きるようになるために「愛」を示されたのです。神である聖霊によって「神の愛」を示されたのです。この罪を贖う愛を差し出して下さることによって「真実の愛」、愛する者のためにどのような犠牲をも差し出して下さる「神の愛」を知るのです。その愛を知って、受け入れる、即ち、信じることによって「交わり」が回復するのです。この交わりこそ愛の経験であるのです。

第三に、「愛」はメッセージであるのです。愛されている喜びが、感動となり、確信となり、意味を持つメッセージとなります。それは「言葉」であるのです。「言葉」は器であり、「言葉」が生きるのはその「意味」が伝わる。メッセージがそこに生まれ、意味が具体性となり、力となり、命になります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。…言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1:1,4)「言葉」は「いのち」であるのです。その命を照らす「光」となるのです。光は希望であり、解決、解放、交わり、平和を示しているのです。

第四に、神様を信じる人、クリスチャンの交わり、キリストの教会はその命と光、神の愛が生かされる「いのち」が聖霊によって証しされ、現実に神の国が現わされます。そこに勝利と喜びが経験され、教会があるのです。「霊の導きに従って歩みなさい。」(ガラテヤ5:16)「愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラテヤ5:6)


今週のみ言葉 

ガラテヤの信徒への手紙5章25節




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