5月9日 礼拝メッセージ

「人を幸せにするキリストの愛」ヨハネによる福音書13章1−15節

幸せな人生を送る一番な大切なことは「愛」に生きることです。「愛される」ことによって「愛する」ことを学びます。今日は母の日です。母の日はアメリカのウエストバージニアのメソジストの教会で始まったと言われています。アンナ・ジャービスという少女が亡き母を偲び、日曜学校の教師をしていた教会で記念会を持ち、白いカーネーションを贈りました。これがアメリカや日本での母の日の起源とされています。今や、世界中の国々で母の日が行なわれるようになりました。

人は、母から生まれ、母に育てられます。母の愛なくして子どもは育つことはできません。不思議なことに「愛」は見えません。見える行為が「愛」と理解される時に「感謝」に代わるのです。「親孝行したいときには親はなし」と言う言葉がありますが、お母さんの「愛」が判るときには地上には母はいないと言う意味です。「子を持って初めて親の恩を知り」と言いますように子を育てる労苦や楽しみを知るなかで父母の「愛」を実感するものです。子どもは愛されて愛することのできる性格を持つことが出来ると言われます。

幼児期より愛されることがない時には、その人の性格は不安と自己保存の穴の中に閉じこめられ自己中心な性格になる傾向が強いのです。人を信じられず、人を愛することを失う傾向になると言われます。人は愛と信頼を失う時には、共に生活することは出来ません。愛は信頼を育て、信頼は人の心を結びます。真実の愛があるところに夫婦があり、親子があり、家族が成り立ちます。この社会は信頼の中で平安と幸せが裏付けられることになるのです。

神は全ての自然の中に命をはぐくみ、人が生きる環境を作られています。「神は愛なり」(ヨハネT4:8)と聖書にしるされているように、すべてのものは神の愛の証であるのです。人は、この神の愛に生きるときにこそ真実の幸せを経験することになります。人はしばしば、愛を見失います。神を信じることなしに、神の愛は経験することは出来ないのです。人は「神の愛」に生きることによって真実の幸せを経験できると言えます。

ヨハネによる福音書の13章で「イエス様は、世にいる弟子達を愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13:1U)と記しています。そこでイエス様は最後の食事の前に弟子達の足を洗われるのです。ペテロは師であり、メシアとして崇めているイエス様が何故、弟子達の足を洗われるのか、戸惑い、「洗わないでください」というのです。しかし、イエス様は「あなたの足を洗わないなら、あなたとわたしの関係はなくなる。」と言われるのです。そして「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」と言われます。これは「わたしがあなた方を愛したのだから、あなた方も互いに愛しあいなさい」という言葉であるということになります。

ここでイエス様は「神の愛」の本質を示そうとされています。

第一に、本来、この時代で足を洗う人は「僕」であって、仕える人であったのです。僕の足を「先生」であり「主」である人が絶対に洗うことはなかったといえます。それはあり得ないことであって、許されることでもなかった。しかし、神の愛はこの理不尽な出来事を通して愛する者が愛している人に執るべきあり方を教えておられるのです。汚れを取り除く、それは赦しがたい罪、償えない罪さえも自分を犠牲する愛であるのです。イエス様の十字架の出来事を現わしています。この贖いの十字架を受け入れて初めて神様の愛を知り、あらゆる自然の中で生かされている神の愛を自覚できることになります。イエス様を信じるときに真実の神様の愛を知り、体験するのです。

第二に、神の愛は、愛する人のために徹底して仕えて下さることをイエス様は示されたのです。信じ、愛する人のために神様は共にいて助け、仕えて下さる方であることを示しています。言いかえれば、責任を持って下さるのです。
第三に、キリストによって現わされた神様の愛は、真実に人を愛する道を示して下さっているのです。不確かな人の生活の営みの中で如何なることも「赦す」ことによって解決することを教えて下さっています。決して思うように現実が成らない時でさえ、希望と慰めの道を通して支えて下さるキリストであるのです。

「あなた方も互いに足を洗え」という言葉こそはイエスの愛の道を表し、人を幸せに生かす解決と救いの根源を示しているものであるのです。



今週のみ言葉 

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15章13節)






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