5月30日 礼拝メッセージ

「人に必要な憩いの場所」 マタイによる福音書11章25−30節


学び,働く人にとって「休む」ことは大切なことであると言える。疲労が重なると健康を失うことになる。精神的に疲労が重なると身体的病気にもなり、自分を見失い、時としては鬱(うつ)に陥り、意欲を喪失することにもなる。そのような時には現実から離れて「休む」ことが回復することになる。

イエス様はマタイによる福音書で「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。“休ませて”あげよう。」(11:28)と言っておられる。疲れた者、重荷を負う者というのは特別な人を言っているのではなく、全ての人が生きるには肉体的に疲れ、あるいは病気になり、責任の重荷を負い、経済的な重荷、実力を試される試練、人と共に生きることによって生起する重荷、あるいは失恋、突然襲いかかる破局や災難に出会う。生きることは楽しいことや辛いこともあるが、いずれにしても「休む」ことが回復の力になる。

しかし、イエス様が「休ませる」と言われる「休み」はアナパウオウという言葉で“休める”“精気づける”“安らかにする”という意味があって、ここ(マタイ11:28)では“精気を取り戻す”という意味合いであって、“回復”するから“救い”を意味していると理解されている。“救う”ということは助けるだけでなく、自分で新しく如何なる試練をも乗り越える気力を、英知を備え、回復と勇気を与えることを意味している。イエス様にある約束の“救い”は受動的で、静的なものでなく能動的で、躍動する命、勇気と確信となる英知を意味している。

このイエス様の約束を具体的に、現実の体験として使徒パウロは次のように述べている。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フイリピ4:11−13)。

“すべてが可能である”ということは“強めて下さる方”即ち、キリストが“強めて下さる”ことによると言っている。その“強める”ことこそがキリストを“信じる”ことであって、キリストのみ言葉が信仰によって信じる人の心に生かされ命となり、希望と確信を生み出す力となる。

Mさんという姉妹は幼少の時から経済的に恵まれない家庭で育ち、家庭を支えなければならなかった。就職も希望通りにならず、夜のお酒でもてなす職場で働くようになり、好意を持つ人と結婚を約束するようになる。しかし、男性の家庭から風俗的職場への偏見から反対される。しかし、二人の愛は固く結婚する。戦後の住宅事情の悪い時代であった。家は狭く、男性の家族と同居であり様々な苦労をする。

一人の子どもが生まれ慰めの内に苦難を偲んだ。二人目をはらんだ。出産の費用もなく、このような状態で育てるのは無理だという不安が苦しみとなり悩み、ふと死を考えるようにまでなっていた。そして、町をあてどもなく歩いていた。その時、ある教会の前に来た。そこの掲示板に「すべて労する者、重き荷を負う者、我に来たれ」というキリストの言葉が書かれてあった。

そして中に入ると白人の女の宣教師が出てきて話を聞き、祈ってくれた。そして「わたしは助産婦です。私が手伝うから生みなさい」と言って出産することになった。命は神が与えられるものであり、キリストを信じるときにこそ神様の恵と力に生かされ希望とか確信が与えられると教えられた。やがて、住宅難であったが不思議と公営住宅が与えられ新しい希望の生活が始まった。その二人の姉妹はクリスチャンとして立派に成長し神様に用いられている。

”キリストの憩いの場”即ち、「救いの場」には第一に「キリストとの交わりの場」ある。「交わり」の中で慰めと癒しが与えられる。第二に、キリストの言葉を聞く交わりは、その言葉にいのちを生み出す英知が備えられている。そして、それは生きる確信となる。第三に、キリストとの交わりの中で「愛されている自分」を発見する。自分のためにいかなる犠牲を持ってでも助けて下さる神の愛を確信するとき、真実の平安、安らぎが与えられる。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27)



今週のみ言葉 

フィリピ4章13節




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