6月6日 礼拝メッセージ

「共に生きる人の道」 ルカによる福音書10章25−37節

アリストテレスという哲学者の言葉に「人間は天性にして社会的動物である」という言葉がある。人間が動物と言われると、確かに、犬や猫と同じ食べ物を食べ、体や健康の維持も共通したことが多い。人は動物には間違いはないがどこかが違う。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」(創世記1:27)神に似せて創造されたとあります。それは何にも支配されない性質であり、自由であることを意味します。神に似せるとは、人は自由である存在であるのです。正に、人間は、自分で自分の道を生きることが出来ると言えます。実際にはこの世の仕組みや因習に支配されながら人と共に生きなければなりません。また、神が創造主であるように人も物事を考え「幸せに」に生きようとして工夫をする本性があります。神に似せられているというのは、「創造」することが、その性質をあらわしていると言われています。人は何事にも本来、物事を、生活を良くしようとする気持ちがあるのです。アリストテレスは「人間の行為は大小を問わず、みな幸福を究極の目的とする」という言葉を残しています。「よくなりたい」ということは「学ぶ」ことであり、それが「教育」することになるのです。動物は「自然に」生きるのであって、物事を創造する「教育」を求める「自由」はないのです。「幸福」は一人一人違います。人が「社会的」であるということは「人と人のつながり」で生かされることを言っています。人は一人では生活できません。和辻哲郎という人は「人とは、人と人の間柄である」と言いました。それれは「共に生きる」ことにほかなりません。人が幸福を求めながら、他の人と共に幸福であるように生きるには、「ことわり」「道筋」が設けられている事とお互いに幸福を考え、譲り、譲られて共に生きる。共に生きることは、正に社会的なあり方であると言えるのです。それは人が「愛し合う」ことを意味しています。神様が「愛」であり、「聖」であることが人を結びつけ、神の創造の御心にあるということが判ります。聖書を一貫して流れるメッセージは「神は愛である」ということであり、「人は、この愛によって共に生きる」ことによって神がそこにおられる、神が愛であると教えておられるのです。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(」ヨハネT、4,12)
よきサマリヤ人として有名な逸話はルカによる福音書10章にしるされています。ある人がエルサレムからエリコに向って旅をしている時、追剥に襲われて殴られて半殺しにされ持っているものと着ている衣服まで剥ぎ取られるという被害にあったのです。そこへ祭司が通りかかると、見て、見ないふりをして通り過ぎました。次に、レビ人もその場を同じように通り過ぎていきましした。次にサマリヤ人がやってきました。その傷ついて倒れている旅人をみると、哀れに思い、傷口を手当をして包帯を巻いてやり、ロバに乗せ宿屋につれて言って介抱をしました。翌日になると2デナリオンのお金を出して「この人を介抱してやって下さい。費用がかかったら帰りに必ず払います。」と言ったという。
イエス様は「永遠の命を受けるにはどうしたらよいか」を尋ねた律法学者に「律法にはどのように書いてあるか」と言われたところ、律法学者は「神を愛し、隣人を愛せよ」と答えた。彼はさらに「隣人とは誰ですか」と問うのです。その言葉の裏には“自分はやっている”その自己を正当化するために“隣人”を誰かはっきりさせてほしいと言っているのです。
エリコの途上の祭司は神の礼拝を主宰する人であり、レビ人は祭司を支えて礼拝の全ての奉仕をする人であり、二人とも律法に精通して奉仕をする人たちであったのです。しかし、苦しみ、傷つき倒れている人を見ても助けようともしない人であったのです。神様を信じることは、神の愛に生きることであるのです。神に仕え、神の御心、神の国と永遠の命を教えているこの祭司とレビ人には、現実の生活の中でその命であり、人間として生かす“神の愛”を失っていたのです。しかし、サマリヤ人は祭司を始め、ユダヤの人々とは敵対関係にありながら、その旅人がその敵であっても“人間”として“愛”の道を実行しているのです。イエス様は見せかけの信仰ではなく、愛に生きる、しかも、「敵をも愛せよ」と言われる神の御心を生きるときにこそ「人間である」証があることを教えられたのです。そこに神の国、天国がある。愛のあるところに「永遠の命」が備えられていると言われているのです。真実の平和と希望がそこにはあるのです。人は神の愛に生きるときにこそ「共に生きる道」を人間の幸せとして生きるのです。生と死を超えて永遠に変わることない人の命に道がそこにあるのです。




今週のみ言葉 ヨハネによる福音書15章13節




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