6月13日 礼拝メッセージ

「喜びの力に生きる」  ルカによる福音書15章1−7節

生きることと生きる喜びは切離して考えることは出来ません。旧約聖書のネヘミヤ記の8章10節には「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」と書いてあります。「主」を「喜ぶ」ことは「力」であるというのです。言いかえれば主を信頼して生きるときには力となる喜びが与えられると約束しています。使徒パウロは「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フイリピ4:4)と言います。神様を信じる者への約束である「喜ぶ」ことは、神が保証される「喜び」であるのです。だから、「常に」いつでも、どんな時でも喜べる人として下さるというのです。パウロはさらにハッキリと言います。「いつも喜んでいなさい」(テサロニケT5:16)“いつも”“常に”とうのは状況がどのような時であれ「喜ぶ」ことであるのです。長い人生には辛い時、苦しい時、悲しい時、孤独な時、挫折の時、また、反面、うれしい時、幸せな時、満ち足りた時もあります。どのような時も「喜べる」ことはどのような人にも出来ることではありません。「喜べ」ない時にこそ「喜べる」ことこそがキリストが約束される「喜び」であるのです。パウロはそれを「秘訣」と言っています。隠されている英知であり、力であるのです。「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フイリピ4:12,13)現在がどのようにあっても、打つべき手、進むべき未来、如何なる闇にも希望の光が約束されているというのです。どのような時にも「全てが可能」であるというのです。
ルカによる福音書の15章は三つの譬があります。99匹の羊と一匹の失われた羊、失われた銀貨の発見、放蕩息子の帰還です。このお話に共通していることは「失われたもの」の回復であるのです。そして、失われたものの回復の「喜び」があるとともに、その話の重要な点はその「喜び」の前に「悔い改める」決断が教えられていることです。失われた羊の話は、神様は問題のない人たちよりも、問題の中に迷い、孤独に悩む人への心配されることを言っています。第二に、失われた銀貨の発見は、発見した人の喜びと共に、神様の喜び、「天国の喜び」であるのです。第三は、神を信じない、自己中心な人間の悲劇の中で「悔い改め」によって神様に帰る「喜び」を言っています。「主にあって」というのは、正に、神様を信頼し、その御心に従って生きることであり、神様との交わりに生きることを言っています。
神様との交わりを開くのは「悔い改め」であるのです。悔い改め、メタノイアという聖書の言葉は「心を入れ変える」更新することです。神様を知らなかったみじめさ、痛みに気付くことです。そして、神様を信頼しない生活から生まれる悲劇、正に、それが罪であり、その「罪から離れる」ことこそが救いと解決、神様との交わりの前提であるのです。その「悔い改め」が神様との信頼を回復させ、「全てを可能にする」道筋を開くことになります。そこに希望が生まれ、力が湧き、光が未来を明るくすることになるのです。
そこで、ルカによる福音書の15章の失われた羊は、神が全てを失っている人への愛を語っていると言えます。神との交わりは愛されている私の発見です。次に、神様を信頼することは「共に」いるお方であるのです。かってモーセがエジプトから逃亡し失意の中であきらめの日々を送っている時、神様は彼を召されて再度エジプトへ向かわせようとされた。その時、「私は必ずあなたと“共に”いる。これこそあなたを遣わす“しるし”である。」(出エ3:12)と言われた。今、どこにでも「共に」おられる方であるからこそ、勇気と「可能性の希望」があるのです。また、神様と「共に」あることは、無から有を創造された方が共におられるという約束であるのです。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:3)だからこそ「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」(フイリピ4:11,12)と言えるのです。だからこそ「主にあって喜ぶ」日々があるのです。その喜びこそ「力の源」であり、命であると言えるのです。クリスチャンは「喜びの人」であるのです。感謝




今週のみ言葉 イザヤ43章19節




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