6月20日 礼拝メッセージ

「人の幸せを求めて」 コリントT、8章2節


「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」(コリントT8:2)
19日,三浦綾子読書会が長谷川先生を迎えて開かれた。テーマの作品は「ひつじヶ丘」でした。三浦文学に代表される「氷点」に続いてに第二作として「ひつじヶ丘」が発表された。「氷点」のテーマが「原罪」であったように第二作の「ひつじヶ丘」のテーマも動かしがたい人間の悲劇的な現実の存在と生きることを問う作品である。その現実の悲劇は「知らなければならないことを知らない」不幸の告発であり、その現実を切り開く扉であると言える。
「知るべきことを知らないでいる」ことはどのように不幸なことか。牧師の家庭の一人娘高校生の奈緒美を中心にドラマはすすむ。高校のクラスの京子と井川輝子との確執、料理屋を営む京子の母は輝子の事業家の父の妾となっていた。函館から転校してきた奈緒美がクラスに来て受け持ちの教師竹山をめぐって愛憎の葛藤が繰り広げられる。そこに竹山の大学の同級生の京子の兄良一が登場する。竹山を愛する京子は彼を慕うが彼の心は奈緒美にひかれる。教会で清純に育てられる奈緒美の心には竹山や京子をさげすむ輝子の交流の中は別世界のようであったが、いつの間にか奈緒美は良一の手なれた女性の扱いの中で恋に落ちる。奈緒美の父と母は良一の人柄を予感してか、交際を反対する。しかし、父母の気持も無視して家出する。函館で着の身着のままで同棲生活に入る。本来、良一は母の生き方の中で自然な中で女性へ興味は欲情でしかないような生き方であった。彼は、画家を志望し、作品に挑戦しながら、新聞記者という職業にある生活に追われ理想と現実の間を悶々としている。そのはけ口に深酒に陥り、奈緒美との生活を省みず、奈緒美には理解しがたく、受け入れがたい荒ぶれた状況が続く。一方、良一は出張の汽車の中で偶然に、背景も、関係もわからず、輝子と出会い好奇心と興味でいつの間にかドラマは二人の関係の中に展開する。両親の不倫を軽蔑する輝子が、その父の愛人の息子と切れぬ仲になる。奈緒美はこの隠された現実を知り、札幌に帰るが、父や母を無視して選んだ人生が破局になって素直には帰れない。しかし、奈緒美が憩う場所は生まれ、育った教会の父母のところである。夜中まで駅近くの路上で迷っている時、賛美歌が聞こえた。振り向くとそこに教会が見えた。とっさに、父母のところに帰る決心をする。もう夜中であった。家の教会のドアを開けるとあいた。牧師館の戸も開いていた。そして夜中にもかかわらず父が書斎いた。父は優しく戸をあけて待っていたよと言う。一夜が明けると良一が迎えに来ていた。仲介する父母の言葉は奈緒美の心に受け入れ難くなっていた。そのような時、良一は咳込み吐血する。結核である。世話にならざるを得なくなる良一は反省し、輝子と清算しようとする。意を決し輝子の住まいを訪ねる。その時、輝子は欲情の快楽を執拗に良一に求めるが、良一は奈緒美のところへ帰ろうとする。しかし、輝子は睡眠薬を入れて最後の杯を交わす。良一は帰路に出て間もなく眠気に襲われ、年末の寒風の中で死を迎える。良一の死を目前にしながら友である竹山は奈緒美が一人になったことに、自分の心に奈緒美への思慕があることに悩む。良一は死後、ルオーのキリストの影響を受けてキリストの十字架像を描き、それを仰ぎ、キリストの血を受けながら救いを求める青年を描いている作品を残していた。
ここに描かれていることは第一に、どのような人にも「知らない欲情に支配されている自分がある」と言うことを告げている。第二に、人は愛して生きることの本当の意味を見失っていることを教えている。第三に、人は、愛とは何かを知らない。奈緒美の父耕介の「愛するとは人を生かすこと」という言葉に人を利用して快楽を満足させる人の偽善的な愛のむなしさを教えている。第四に、どのような人も、「いつも開かれている神様の救いの道」を知ってほしいと語りかけている。
キリストは言われる「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)




今週のみ言葉 コリントU、5章17節




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