8月1日 礼拝メッセージ

「信仰の生み出す楽しみの力」 ヨハネによる福音書4章27-30節

「喜び」「楽しみ」は「良い薬」になり、「からだを健康」にするということになります。簡単には言い現わせませんが、喜びと出会い、生活の中で繰り返すことによって楽しみとして充実した生活となると言えます。楽しみが欲望を満足させるものである時にしばしば人は過ちを犯すことになります。箴言の17章22節のみ言葉は、その前節に「神を知らない者の父に喜びはない」とあります。言いかえれば、神様を信じる信仰によって与えられる喜びであるのです。実際に欲望の赴くままに博打や、麻薬、見栄で借金を重ねることはどのように楽しく、一時的に満足があっても生活を破0壊し、人生をみじめにするだけです。残るのは悲惨と破壊と絶望ということになります。キリストを信じる信仰の生み出す「喜び」「楽しみ」こそは、人の心を養い、命を与え、力となるのです。体の健康だけでなく、生活を充実させるのです。そして、その喜びは、人々に分け与える喜びとなり、そのことが楽しみとなるのです。
ヨハネによる福音書の4章にはイエス様とサマリヤの女の人の出会いが記録されています。ユダヤ人とサマリヤ人は歴史的な経緯の中で対立し、ユダヤ人はサマリヤ人を見下げ、サマリヤ人は宗教的にも同じ旧約の諸書でも律法(モーセ五書)だけにこだわっていました。そこで礼拝するところの正当性を主張し合って対立していました。ユダヤ人はサマリヤ人の村には近寄らないし、交わりも避けていました。イエス様と弟子たちはそのサマリヤを通って行かれた時,シカルというところで昼になり弟子たちはパンを求めて町に行きまし、そこにはヤコブの井戸がありイエス様は一人そこで待っておられると、サマリヤの女の人が水を汲みにやってきました。そこでイエス様が水を求められることから話は、水と永遠の命、魂の救いついて語られたのでした。この村では水は朝早くみんな汲みくるのでこの女の人はイエス様が指摘されているように多くの男性との交流があって村の人々からうとまれており、人目を避けて真昼に井戸に来たのでした。イエス様が女の生活を見通されるのを見て、この方こそ神の人であると実感したのです。そして話が進むうちに来るべきメシヤ、救い主であると聞いて喜んだというのです。そして町に行って、「わたしのことを言い当てました。この方こそメシヤかも知れません」と言うと町中の人々はイエス様のところへやってきたというのです。
このサマリヤの女の人は自らの罪深い生活のすべてを指摘し、偏見と差別に中で迷っている信仰の心を神が全ての人に開かれた恵みを持って受け入れられる方であることを教えられ、イエス様を救い主として受け入れたのです。自分を人間として認めて下さったイエス様、この愛なるお方こそ救い主であるという喜びを得たのでした。そして、いつも冷たい視線で無視する町中の人々にその喜びを伝えたのです。この女の人はイエス様によって民族的な偏見と差別から救われる道を見出し、町の人々への卑屈さからも解放されるだけでなく、人々に救い主に出会った喜びを伝えたのでした。キリストに出会う喜びは、如何なる時にも心に充実感を与え、様々な試練をも越える力を与える命となることを示しているのです。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フイリピ4:4−7)




今週のみ言葉 
「私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。
同様に、あなた方も喜びなさい。私と一緒に喜びなさい。」
(フイリピ2:17,18)




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