8月15日 礼拝メッセージ

「幸せな自由と不幸な自由」 ヨハネによる福音書8章31-38節

信仰の自由の日 8月15日
私たちの教会では、8月15日を「信仰の自由の日」としています。この日は忘れがたい第二次世界大戦争終結の日です。世界の列強国の植民地政策に巻き込まれて日本は軍国主義の道に進み、アジアでは600万以上の人々の命が失われたのです。悲劇なのは人の命が軽んじられ、自由を失ったことでした。天皇を中心にした国家神道を国是とし国民に強制したのです。学校でも天皇を拝礼させ、強制的に児童を神社参拝に参加させました。キリスト教のすべての教派は宗教統制令で統合させられたのです。教会では礼拝に特高(特別高等警察、政治や天皇制への批判思想を取り締まった)が出席し監視していました。時に「終末の時キリストが再臨して世界をすべ治められる」と言うことが天皇を否定するということで再臨を強調するホーリネス系の牧師が投獄され、殉教されたのでした。ザビエルが1549年に来日し、宣教が始まったのですが、秀吉の禁教令による迫害、徳川幕府の徹底したキリスタン禁令によって明治になるまで信仰は弾圧されたのです。一時の宣教の自由も軍国主義の台頭で統制され、神社参拝を強要されることになります。
1945年8月15日、終戦を迎え、新しい体制の下で「新憲法」が制定され、基本的人権の保障として「信仰の自由」は回復されることになります。長い間、日本では封建的な体制の階級社会で差別と選別の仕組みでありました。明治になっても基本的には天皇絶対主義を根底にしているために軍国主義の道をたどります。人々は戦後、基本的人権が保障され「自由」を与えられながら、自由を自己主張と欲望の自由として考え、国を愛し、社会を共有し、家族の絆を大切にして幸せを考える風潮が失われるようになってきています。「自由」は「愛」と共にあって真実の自由であるのです。人は、一人で生きることは出来ません。家族と共に、社会では人々と共に生きます。共に生きることは、理解と信頼がなければなりません。人は愛しあってこそ共に生きることが出来るのです。トルストイは“人生論”の中で「自分の命を捧げさえする時、はじめて、われわれはそれを愛と認め、そのような愛のうちにのみ幸福を、愛の報酬を見出す。」と言っています。自己犠牲は愛する者のために選ぶ「自由」なのです。「自由」が自己の欲望、欲情の満たしのために人を犠牲にし、家族を犠牲にすることでは「自由」を取り違えたことになります。
聖書には「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。」(コリントT9:19)この「全ての人の奴隷」と言うのは、全ての人を愛して生きることを意味しているのです。「自由」であることは、他人を利用し、自分のために犠牲にする自由もあるのです。しかし、「奴隷」となるとは、他の人の幸せのために犠牲となることです。そこで幸福を共に分かち合う平和と安心、喜びが生まれるのです。
キリストは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31)と言われている。キリストの言葉、教えに生きる時に本当の弟子になり、真理、即ち、キリストの十字架に示された神の愛の意味を知り、「人を愛する」真意に生きるキリストの弟子となるというのです。キリストを信じる時、キリストの愛に生きるのです。キリストはさらに、「もし子(キリスト)があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」(ヨハネ8:36)と言われています。自由が自己中心、自己欲である限り、そこから闘争と混乱、憎しみと攻撃、嫉妬と侮蔑、偏見と悪口が生まれます。それこそが罪悪であり、「罪」であるのです。この罪を解決することこそキリストの十字架の言葉、真理であるのです。
聖書は「この方(キリスト)こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(ヨハネT2:2)と記しています。キリストの十字架に表された犠牲の愛こそ、真実の「自由」を生きる喜びを約束しているのです。キリストを信じることは、キリストを心に受け入れ、キリストの真理の霊である聖霊を受け入れ生きることです。この聖霊、キリストの真理の霊こそは人を真実の「自由」の希望に生かすのです。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤ5:1)「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)





今週のみ言葉 ガラテヤの信徒への手紙5章1節





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