8月22日 礼拝メッセージ

「死の淵を超えて希望に生きる」エゼキエル37章1ー14節

ドイツの鉄の宰相と言われたビスマルクは「愚者は現在に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言いました。目先の出来ごとや問題に気を配り、解決しようとしても難しいと指摘しています。現在は長い過ぎ去ったいろいろな経験の中で繰り返し起こる出来事を学んで物事に当たることが知恵ある人だということになります。聖書は神様の選民として歩んできたイスラエルの歴史の記録であるのです。イスラエルは特別な人であるから神の選民に選ばれたというのではなく、全人類が神様を信じる恵を知らせるために用いられたということです。イエスラエルは決し特別な人々ではなく、迷い、神様から離れ、罪を犯し、不信仰にもなり、何故神様の民が悲惨なことになるのだろうかとさえ思える出来事もありました。しかし、神様は彼らの中から神様の言葉、メッセージを語る預言者を立てられたのです。神の言葉があるところに希望が生まれ、道筋の見えない未来に光を見出したのでした。そのような経験を繰り返しながら、試みの中では相変わらず迷い、疑い、自分勝手な行動で失敗を繰り返すのですが、神様はその度に、人に迫り、諭し、教え、導かれる忍耐を持って愛されていることが判ります。
BC589年、南王朝(ユダ)がバビロンに征服され、多くの指導的な階層や為政者が捕縛されてバビロンに捕囚されて行きました。すでに北王朝(イスラエル)は722年アッシリヤに征服され、ほとんどの人々が連行され失われたのです。南朝の人々は神殿(エルサレム)がない北朝は無理からぬことだという気持ちで多くの民は、南朝はどんなになっても滅びることはないと思っていました。しかし、長く続いた悪政の影響によってヨシアの神殿改修と律法の発見にも関わらず、不信仰の弊害は神殿の崩壊、王朝の滅亡となるのです。バビロンに捕囚された人々は悲嘆と絶望の中で嘆き苦しんでいる時、エゼキエルがバビロンで神様に召され預言するのです。預言者は神の言葉を語ると言われます。 エゼキエル書は幻の書と言われるぐらいに多くの幻が記録されています。その中の中心的な幻と言われているのは37章の谷間の骨の幻です。ここでは幻は神の啓示であって、神の言葉、メッセージであるのです。ですから、22節では「主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。“我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる”』と」記しています。
谷間の骨の山こそは、全てのイスラエルの人々であると宣言されているのです。命を失っているもの、それは絶望を表し、希望を失い、悲嘆と嘆き、恐ろしい終末の破壊を指し示しているのです。現実に「命を失い。望みは失せ。我々は滅びにある。」と悲嘆の内に嘆くのです。しかし、主はエゼキエルに聞かれるのです「この骨は生き返ることが出来るのか」と。主なる神が聞かれる。エゼキエル自身、人間として骨を生き返らせることは出来ないことを知っている。不可能を可能とされる方、それは神以外にはないのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19:26)
命のないものが命を回復し、望みえない者が希望を見出し、滅びを実感する者が救いに出会うことを約束しているのです。人生には、日々の生活の中でいろいろな試練に直面し、仕事でも問題に直面して、絶望的になることもあります。人と人の関係でも行き詰まり、苦しむ時があります。その時、主が「この問題は解決できるのか」と問われる時、「主よ、あなたがご存じです」と言えるであろうか。「主には、出来ないことは何もありません」とはっきり答える時に「全能の神」のみ力を信仰によって引き出すことになるのです。次に、エゼキエルが骨に預言すると骨が組み合わさり、筋が芽生え、肉が生じてくるようになる。しかし「その内に霊がなかった」と言葉が続く。全てのものが整えられても「霊」が吹きこまれているかが問われる。「命」である。今このメッセージは確かに形がある、しかし、真実に生きること、神の言葉に生かされていることを言っているのです。「主を知る」神を真実に知ってその言葉を「信じる」時、その信仰が霊によって生まれ、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピ4:13)と言えるのです。神様の御心に生きる時に、たとえ死に直面しても「復活」の希望に生かされるとともに、また、現実のどのような苦難の中にも解決を与え、如何なる時にも主の御心を教え、支えとして下さるのです。


今週のみ言葉 エフエソ2章8節




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