9月12日 礼拝メッセージ

「活けるキリストの言葉」 マタイによる福音書20章26−30節

キリストを信じる時に、信じた人の心に表される証明の一つは「感謝すること」である。キリストによって神様の御心が分り、その存在の偉大さが実感される感動は「感謝」として表される。言葉が通じないような外国に行く時にも人の親切を感じる時、「有り難う」の言葉が人間として結びあう喜びを分かち合える。「サンキュウ」は英語で世界中大抵通じるが、通じないこともある。韓国では「カンサハムニダ」、ドイツ語では「ダンケシェーン」、フランス語では「メルシボクー」、イタリヤ語では「グラツェ」、中国語では「シェシェ」、フインランド語では「キ―トス」、アラビヤ語では「シクラン」、ブラジルは「オブリガード」(ポルトガル語)、スペイン語では「グラシャス」、これは私が旅行をした国々や、出会った国の人々の交わりで出てきた言葉である。この「感謝します」「有り難う」と言う言葉は人と人を結ぶ、最初の言葉でもある。「感謝し合う」ことの中で交流が深まる。「ユウカリストウ」はギリシャ語で、古い日常用語であるがこの「感謝する」言葉が、「聖餐の祈りをする」「賛美の祈りをする」の意味に使われ、「ユウカリストウ」(感謝)は「聖餐」を意味するようになる。
キリストが弟子たちとの最後の食事をされた時に、パンと葡萄酒杯を差し出して「とって食べなさい。このパンは私のからだである。この杯は罪が赦されるために流された契約の血である飲みなさい。」(マタイ26:26−28)と言われたことが聖餐式の基本となり、使徒パウロがは「“記念”としてこのように行いなさい」(コリントT11:25)と記している。繰り返し、“記念”、即ち、「キリストの十字架で流された血を“思い出し”(記念)、罪赦されて神の子とされた恵みを自覚しなさい。」と言うのである。人間は、忘れやすく、移ろいやすく、誘惑に弱いのである。キリストは私たちの全てを知り、その弱さを支え、動揺を静めて、備えてくださるのである。「聖餐」はキリストの最後の言葉であり、命を守る言葉である。繰り返し「聖餐」の恵にあずかる時、罪の許しを新たにし、キリストの言葉がよみがえり、いのちとなる。そこで新たに神の創造の生命を自覚し、その生命を支えて生かして下さっている自然の不思議を新たにするのである。生かされている喜び、生きる目標、永遠の命への確信と平安を見出すのである。
神との交わりの素晴らしさがこみ上げる「聖餐」の時となる。この創造の神秘、神の愛の深遠なる御心に包まれるところに賛美と感謝が祈りとして証しされる。「祈り」、キリストを信じる者に与えられる神との交わりの回復にほかならない。「祈り」は「信仰の告白」であり「賛美」であり、「感謝」である。
キリストの活ける御姿を「聖餐」の中に見て「キリストの言葉」を聞くのである。「聖餐」は見えるキリストの体と血であり、見える、生きた“キリストの言葉”である。そこには聖餐にあずかる人々をキリストにあって一つにする恵がある。それこそが「キリストの体」であり、共にキリストに生きる家族となる。使徒パウロは「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:23)と言っている。「聖餐」は「感謝」と「賛美」を生みだす信仰生活の基礎である。活けるキリストに出会い、み言葉を聞き、感謝にあふれる日々を約束する基点である。
如何なる時にも、如何なるところでも感謝があふれ、喜びが溢れるカギとなる恵みである。「最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フイリピ4:4−7)「 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
(テサロニケ5:16―18)

今週のみ言葉 テサロニケT、5章10節




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