9月19日 礼拝メッセージ

「永久に平安と永遠の命」 詩編23篇1−6節

神様を信じる時に、生かされている自分を発見できる。生かされている神の恵。生かされている幸せが喜びとなる。それは充実した人生となる。日々の営みには楽しみや悲しみ、喜びや苦しみが交差する。
今年の夏は娘の入院のために小学生の孫二人が、10日間の間、おじいさんとおばあさんの所にやってきた。年をとった者には何にも代えがたい幸せな時であった。朝昼晩三回の食事には長男の主輝がお祈りをしてくれる。そして必ず「おじいちゃんと、おばあちゃんが長生きできますように。おばあちゃんが作ってくれたおいしいご飯を感謝します。」と祈ってくれるのである。どういう訳か、まだ食べていないのだが「おいしいご飯」である。それは「いつもと同じように美味しいご飯」の喜びが感じられる。また、毎回「長生きするように」と必ず、祈ってくれるとこのお祈りが心にしみて「本当に長生きできるんだ」という感謝がこみ上げてくるのを感じた。天国にいる充実感と喜びである。イエス様は「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と言われた。人は例外なく死ぬ。それは空(むな)しく儚(はかな)いものであろう。
万葉の詩人、大伴家持は「うつせみの 世は常なしと 知るものを 秋風寒(さむ)み 偲(しの)びつるかも」と歌っている。現世が無常であることは仏教の教えで知ってはいるものの心の悲しみが癒されない。儚き、空しい心をどうすることもできない。秋風が吹けば亡き人を偲ぶものであるという。「人間とは死ぬために生きる存在である。」とハイデッガー(哲学者)は言う。誰にとっても死別は淋しく悲しき儚い。しかし、イエス様は「死んでも生きる命」即ち、「永遠の命」を約束される。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)「永遠の命」とは「神の国」天国を意味する。永遠の命とは終わりのない命であり,時間のない命である。「神の国」は神が治められる国である。神の御心に生きる人々の国である。イエス様は「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、“神の国”を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)と言われた。「新たに生まれる」ことは、神様から離れている自分に気付くことであり、神様から離れていることは、神様を忘れ、神のいない所で生きていることを言っている。神のいないところは空しく、儚く、混乱と対立、欲望と虚栄の渦の中にある自分をいい、罪ある現実の人間と世の中を指している。新たに生まれることはこの現実の罪を悔い改め、神と共に新しい自分を生きることである。そこに神の国を見ることが出来る、経験出来ることである。真実の聖と愛、善意と慈愛が満ち溢れる調和と平安に満ちる国である。主が共におられる所に神の国がある。「わたしはいつもあなた方と共にいる」(マタイ28:20)と約束されている。「人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20,21)と聖書は記している。
今、主イエス様を信じる時、心の中に神の国が実現し、信じる人々と共にあって神の国を目指すことになる。死は終わりでなく、現実から解放されて神の国に永遠に生きる安らぎの時となる。そして、永遠に変わることのない命に復活が成就されるのである。
詩編23篇では「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。」(1ー3)と心境を告白している。主と共に生きる人は「魂を生き返らせられる」即ち、神に従い、導かれる人には「なにも欠けることがない」保証を与えられ、平安を与えられるのである。だからこそ「 死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」というゆるぎない平安を持って死の谷を越えることが出来るのである。
失せ行く時、消滅する存在を超え、無限の時、不変の存在こそ永遠であり、神の国の平安がある。家族の心を結ぶ信仰こそ、家族の信仰の土台であり、幸せの絆である。信仰がなくなる時に、心の絆は失われ、家族は消えることになる。
「わたしたちの本国(国籍)は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フイリピ3:20)

今週のみ言葉 ヨハネ3章3節
「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」




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