9月26日 礼拝メッセージ

「重荷を背負われるキリスト」 マタイによる福音書11章28−30節

旅行は楽しいものである。特に知らない海外へ旅するときは何に出会えるのかという楽しみがあり、いろいろな知識に出会える楽しみもある。ベネチアには有名なサン・マルコ教会がある。以前からマルコが伝道してここで死に葬られたと思っていた。行って聞いたところでは9世紀にベネチアの商人がエジプトのアレクサンドリアで聖マルコの遺骸に出会い買い取ってベネチアに持ちかえって教会が建てられたと伝承されていると言うのである。この知的な情報が何とも新鮮である。行くところ買い物をすると荷が重くなり、だんだん疲れが出て家が恋しくなる。家に着くとホッとする。人生は旅路であると言われる。楽しいこともあるが、悲しいことや、辛いこともある。それが家族の問題であったり、職場での問題であったり、就職や、結婚の問題であったりする。経営者には事業のこと、従業員やその家族のことの問題もある。徳川家康の言葉で「人の“人生は重き荷”を負うて遠き道を行くがごとし。」とある。生きていくことが誰にとっても重荷となり、疲れるものであると言っている。あてどもなく、先の見えない遠い道を行く淋しさと空しさが読み取れるのである。終わりのない旅は空しいものである。“終わり”は英語では“目的”でもある。人生に目的があれば、挫折や空しさは支えられ、再生の意欲となる。支えとなる目的があることは、正に、生き甲斐である。生きがいのあるところに喜びがある。喜びは力であり、命となる。
キリストは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と言われている。古い聖書(文語訳)の「すべて労するもの、重き荷を負う者我に来たれ」の表現の方が原典(ギリシャ語)に沿っているように思われる。生きる目的を失い疲れ果てている人には「休ませてあげよう」とある。そして、「わたしの軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは“安らぎを得られる”。」と続く。この“安らぎ”と“休む”は同じアナパウオという語で“休むことは”安らぎ“を得ることであり、この言葉には”元気づける“という意味があり、”新鮮な力を与える“と訳すこともできる。“ 軛”は耕作する二頭の牛を横木で繋ぐことをいう。キリストを信じて一つになってそのみ言葉に従うことを意味している。そこでは新しい新鮮な力を与えられ辛い作業ではあるが“実りの人生”を目指して進むことを教えている。
第一に、キリストは29節で「わたしは柔和で謙遜である」と言われる。キリストは慈愛に満ち、優しさに溢れ、来る人をどんな人をも拒むことがない方であり、どのような人にも謙遜である。上から見下ろし、教え、支配する方ではなく、キリストの使命は「人の子(キリスト)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)重荷を共に背負って下さる方。問題を共に考え、道筋を示し、決断の勇気を与えてくださる方である。仕えることは愛していることにほかならない。「愛するとは愛している人のために死ねること」と言われる。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)キリストは不幸と騒乱の根源である「罪」を購うために犠牲となって十字架に架けられて犠牲になられた。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(ヨハネ手紙U2:2)
第二に、「わたしに学べ」とキリストは言われる。その結果として「安らぎ」を得ると言われる。元気付け、全く新鮮な命、勇気と希望を持って再生される。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩1:2,3)キリストは真実である。この約束こそはその保証である。
第三に、キリストによって立ち直った人々は、キリストの愛で生きることになる。主は言われる「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)共に、重荷を負い合うことこそキリストが与えられた使命であり、愛の実である。「“互いに重荷”を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法(み言葉)を全うすることになるのです。」(ガラテヤ6:2)ユダヤ人は神の民でありながら世界に散らされ試練の道を歩んできた。彼らはトーラー(律法)に基づいて生活に適応するタルムード(適応解釈)を記録してきた。そして、それは解釈と実例の伝承がある。その一つに、海賊に襲われて人々は奴隷に売られることになった。いろいろな国の人が売られ、一人のユダヤ人が残った。セリにかけられ頑丈で力持ちの様でいい値がついた。一人が黄金何枚と声をかけた。すかさず二番目の人がその倍をかけた。セリは進んだが、最後に、二番目の人に落ちた。そして買った人は買われた人に手を差し伸べシャロームと言ったと伝えられている。ユダヤ人は捕われている人をどんな犠牲を払っても助け出す教訓があると言うのである。キリストはどんな人にもその救いの愛を差し伸べることを示されている。「重荷を負い合う」ことこそは救いと平和、安心と希望を力、命として与えることになる。それが活けるキリストの教会の在り方であり使命である。


今週のみ言葉 ガラテヤ6章2節




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