10月3日 礼拝メッセージ

「キリスト信仰の真髄」使徒言行録16章25−34節


ギリシャという国は哲学の国として知られている。新約聖書の時代でも盛んに哲学が論じられていた。哲学はフイロソフイと言って「知を愛する」という言葉が示すように、当時の哲学は知性をもって“幸福”を中心に追求するものであった。しかし、古来から、ギリシャ神話でも知られるように奇想天外な神話の伝承が様々な形で庶民の習俗を動かしていた。使徒言行録の16章に出てくるフイリピでの“占いの霊に取りつかれた女奴隷”の記録にもある。“占いの霊”は、デルフオイ(ギリシャ中部の町)で古代からの神託を守っていた竜がいて、それをアポロが退治したというものである。やがてギリシャ一帯の政治や生活を動かすことへの反逆する悪霊としてみられるようになっていた。この伝承が“占いの霊”ピューソンで、人々の生活の不安を拠り所として習俗を根深く動かしていた。
今の日本は高度な技術と経済、知識社会でありながら、町角の“占いの拝み屋”さんに病気、事業、家族のしがらみから株の上げ下げまで加持祈祷を求める21世紀の図式がある。どのような時代にも人の心のつかみどころのない迷いや不安は祖先の霊への供養不足にかこつける。
パウロはフイリピで河原に行って祈ろうとしていると、そこに座っている婦人たちがいたので、神様の話をした。この婦人は裕福でパウロたちに停宿するように願い。パウロは世話になりながら祈るために河原に出かけていた。その途中、“悪霊に憑かれた占い”の女がしつこくつきまとうので、「イエス様の御名」をもって祈ると立ちどころに癒された。この女奴隷は正気になったのであるが、その女の主人たちは女の占いを利用して、儲けていたのでおさまらず、パウロたちを捕まえて実行してはならない風習をしていると訴え、役人に突き出し、投獄してしまった。牢獄の奥深く捕われていたが、パウロたちは祈り、主を崇めて賛美していた。夜中に、突然、大地震があり,牢の戸は全て壊れて、囚人の鎖も取れてしまった。看守は囚人が逃げたと悲観して、自害しようとした。その時、パウロは「自分たちは皆いるから自殺するな」と声をかけた。当時、囚人を逃がしたなら看守は自害することになっていたようである。恐怖の中にある看守はパウロの冷静な態度によって自分を取り戻し、パウロの言葉を聞くことになるのであった。「どうしたら救われるのか」という看守の問いに、パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる。」と言った。そして、「主の言葉」を語ると家族全部が洗礼を受けて喜んだのである。
キリスト教の信仰の真髄は「主イエスを信じる」ことに尽きる。第一に、イエスを信じることは「喜び」である。その喜びはイエスのよって示される「命と存在の根源である創造主なる神」を信じ受け入れることである。そこには生かされている喜びと感謝がある。第二に、創造主なる神を受け入れる前に、神を知らなかった自分、信じなかった傲慢、受け入れなかった愚かさ、我欲中心の中で争いが絶えない罪の現実をイエスは教えられる。使徒パウロはローマに市民権をもちながら現実に甘んじて理不尽な人間の裁きを受けながら、現実の苦しみを受け入れ、看守の苦悩を救いに導いた。それは正にイエス・キリストが、理不尽な十字架の裁きを受けながら人々の神を恐れない罪深い現実に、神の愛と救いをお示しになったことに通じるのである。第三に、看守は、パウロの語る「イエスの言葉」を信じ受け入れた。愛されている自分を知る。無知な因習と風俗に惑わされる現実に気が付き、真実の神、愛と聖なる御心がキリストの十字架の上で語られ、道を開かれた「救いの道を信じ受け入れたのである。
「神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。」(使徒16:34)のである。信仰の真髄は、キリストを信じることによって「生きる目的」(生甲斐)に出会うことである。生かされる「喜び」、「人生は感謝」の日々となる。「神ある平安」である。これは一時的な平安でなく神と共に生きる「永遠の命に生きる安らぎ」である。神を喜び、神を讃え、神に従う者に与えられる力と平安である。



今週のみ言葉 マルコによる福音書16章15節
「全世界に出て行って・・・福音を宣べ伝えなさい。」




 ページのトップへ    2010年の礼拝メッセージ  他の年の礼拝メッセージへ      トップページへ