10月10日 礼拝メッセージ

「共にわかちあう喜び」 ローマの信徒への手紙12章9−18節


人は、一人で生きることは出来ません。しかし、人間は一人一人の願いが違うのも事実です。その違いを超えて一緒に生きる所に人の幸せがあります。「生き方は人と人との間柄」にあると和辻哲郎という人は言っています。人という字は、二人が支え合っていることを表しています。人は、人と人との間を大切にし、支え合い、いたわり、助け合うことによって人間になることを表しているのです。人は二人で支え合って初めて人間になることを言っています。
イエス様は「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたは私の弟子であることをみなが知るようになる。」(ヨハネ13:35)言われました。「互いに愛しあう」前に「わたしがあなた方を愛したように」という言葉が先行しています。キリストが愛して下さったように「愛し合う」と言うのです。ヨハネの第一の手紙の3章16節には「キリストは私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」とあります。「愛し合う」ことは、とりもなおさず「キリストが命を捨てて愛して下さった“神の愛”によって愛し合う」ことです。「命を捨てる」犠牲を払うことは決して容易なことではなく、悲しみと苦痛が伴うことです。実は、クリスチャンの交わりはこのキリストの愛によって結ばれた交わりです。互いに理解し、譲り、助け、犠牲を払うことになる。そこに愛の実として「和解」と「平和」が結ばれることになます。
「愛には偽りがあってはなりません。」(ロマ12:9)の言葉は「愛しあう」ことの基本を示しています。人は移ろいやすく、過ちを犯しやすいものです。救われているクリスチャンであってもその試みはいつもつきまとうと言えます。ルターは「クリスチャンの人生は悔い改めの人生である」といったと言います。悔い改めは反省であり、反省はセルフリフレクッションであって自分を内察することによって自分の真実を知り、反省することになり改めることが出来ます。そして主に従うクリスチャンの原点に立つのです。そこで日々の中で主を愛する愛が、現実の生活で証しされることになります。主を愛することによって人を真実に愛する道を歩むことになるのです。
ここで学ぶことは主にある愛の実践は愛の拡大、交わりの拡大であります。愛は主の御心の実践であり、主の御心がこの地に証しされる宣教であるのです。主のみ言葉が受け入れられ、交わりが生まれるところにキリストの交わりが生まれます。正にキリストの教会であるのです。「泣く者と共に泣く交わり、喜ぶものと共に喜ぶ交わり」です。日本で「死の臨床」の先駆となられた河野博臣というクリスチャンドクターがおられました。外科医であった先生の所に、ある時、刃物をお腹に刺して自殺を図った女性が担ぎ込まれたというのです。酷い傷で助かるかどうか予測できない危険な状態だったのです。しかし、この先生は医療の技術に自信があり冷静に治療に取り組まれました。手術も終わり命を取り留め、回復に向かったのでした。外科医としての満足感と喜びに充実感をもっておられました。しかし、完全に治ったこの女性はある日、服毒自殺をしてしまったのです。体を治しても心を治しえない医者の限界を痛切に感じ、人の死に取り組み、人の心の癒しを研究することになったというのです。キリストを信じる信仰の祝福は永遠の命に生きる希望と力です。人生は死で終わるのでなく、今を永遠に変わらない神の言葉に生かされる時、現実において喜びと平安を与えられるのです。それは、とりもなおさず、キリストを信じる信仰を伝えることのできるクリスチャンにしか出来ないことです。そのキリストとの交わりこそキリストの愛に生きる解決と救いの道であるのです。日常のキリストの愛の交わりの拡大こそ、神の国の実践であり喜びであるのです。真実に共に泣ける人こそ、心底から共に喜べる人になれるのです。



今週のみ言葉 ローマの信徒への手紙 12章15節




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