10月24日 礼拝メッセージ

「夢のある人生」 使徒言行録2章14−21節

新幹線が走り、淡路海峡には4キロもある明石大橋が架かっている。出来るまでは「夢の新幹線」「夢の明石大橋」と言った。3時間で東京大阪を走ることは考えられない速さであった。しかし、今は2時間30分である。そして、今の夢は1時間が現実的になってきている。「夢のリニアモーターカー」が実現しようとしている。日常生活の中で「夢」と言えば「希望」という意味で使う。信じられない、実現の不可能な様な大きな計画や物事、信じられないようなことを考えるときに「夢を見る」と言う。
病理学では夢は「心の傷」の補償作用であるといわれる。怖い、いやな、辛いことなどを見ることになる。しかし、人間の見る夢は、そのような夢ばかりでなく、事実としてこれから起こること、起こったことを知る夢もある。それを「正夢」と言っている。聖書は「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」(創1:27)と記している。それは、本来、神との交わりに生きる存在であるという意味であり、神を信頼して生きることを言っている。神を信頼して生きることは、神の御心に生きることであり、神の言葉に生きることである。聖書は神が歴史の中の出来事を通して、その御心を示されたことを記録された神の言葉である。
「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2:17)“私の霊を注ぐ”ということは、約束の聖霊経験を言っている。神の霊、即ち、聖霊を受け、人は、自覚的に霊なる神の御心を体験的に知ることになる。神を知ることは自分の心と霊性に神の御心が甦る経験である。人は無自覚の内に神の御心に生きる傾向を持っている。神の正義、善意、愛、憐れみなどの思いは信仰のあるないに限らず持っている。しかし現実には全く実行することは不可能に近い。言い換えれば、自己中心が神の性質を失う、罪を犯すことになる。刑法に問われなくても、愛憎の渦巻く心情から解放されない心の汚れは誰しも持っている現実である。神の「霊が注がれる時」そこに人の心に先ず、神から離れている罪の惨めな現実を支援される。キリストの弟子たちはイエス・キリストが何故十字架に架かられて死なれたかと言う神のメッセージを知ることが出来た。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方(キリスト)によって神の義を得ることができたのです。」(Uコリント5:21)
神との交わりから人々は「預言をする」即ち、神の言葉に生きる道を語る。「預言」は言葉を「預かる」即ち、神の言葉に生き、神の言葉を分かち合うことである。確かに「預言」は“予言”、即ち、これから起こることを予見し、起こることを告げることでもある。神の言葉、神の約束、即ち、「預言」は時を超えて変わることなく個々の人々に働いて神を信じる信仰の希望に生かして下さるのである。
第一に、死という絶望、悲哀、苦悩から解放される。キリストは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる人は死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と言われた。そして現実に、死んで3日目に甦られた。弟子たちはその意味が解らなかった。しかし、聖霊が彼らに臨まれた時に、その霊性が見ざめ、自覚し、悟りえたのであった。永遠の命に生きる自覚こそ、死を克服した。
第二に、永遠は、時間のない今である。時の流れは移り変わり、過ぎ去る。神に出会う時に今の時に終わりがあることに気付く。今の時、太陽も月も過ぎ去る時が来る。だからこそ、移ろいゆく色々なこの世の出来事があっても、変わることのない創造主なる神の御心に生きる時、どのような環境にあっても希望を失わない道を歩むことが出来る。これが信仰の醍醐味であり、素晴らしさである。神が約束される「夢」に生きようではないか。その「夢」のあるところには「希望」と「喜び」が備えられている。
「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。…希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ5:2,5)



今週のみ言葉 
ロマ書 5章8節




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