10月31日 礼拝メッセージ

「恵とキリストの言葉の祝福」ロマの信徒への手紙1章16−17節

家を建てる時に大切なことは土台です。どのような家を建てるかによって土台の強度も決まると言えます。人生設計もどのような道を進むかによってその「土台」を考えることが大切です。いずれにしても、人生にはいろいろな出来事があり、それを乗り越えて成長することもできます。実際には、辛いことや耐えられないで挫折することもあります。しかし、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(コリントU4:8)という聖書の告白のようにどんなことがあっても自分を見失わず、再起できる気持ちが大切です。この言葉の根拠として次のような言葉が続いています。
「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」(10−12)ちょっと解りにくいかも知れませんが、イエス様を信じて生きることを言っているのです。イエス様が創造主なる神様がどんなに人々を愛しておられるかを教えて下さったのです。人間の様々な悲劇のもとは真実の神様を見失って自己中心に生きる中で起こるのです。神様を見失い、離れ、無視するところに分裂と混乱、憎しみと対立が生まれるのです。その亀裂と悲劇こそ「罪」の結果であるのです。聖書が教えている「罪」とは「真実の神様を信頼しない」ことを言っています。イエス様は神の御子として、神様の愛を教え、人間が自分で正しく歩むことができない現実に罪を悔い改めて、神様の愛を信じるときに神の命と力が希望となり、死という現実も超えて永遠に希望を与えられることを示された。イエス様は信じることのできない人々のために十字架に架けられて死なれました。それはまさに「この方(イエス様)こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(ヨハネT、2:2)であるのです。神様が、その御子を身代わりの犠牲として十字架の道を歩ませられたということができます。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。・・・言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(ヨハネT、3:16,18)このイエスを信じる時にこそ「希望は失望に終わることがない。」(ロマ5:5)という勝利の人生が約束されるのです。そのイエス様が示して下さった救いの道こそ「福音」であるのです。
使徒パウロは、哲学の町アテネで、あざ笑われ、ローマでは権力崇拝の中で見下げられながら、「わたしは福音を恥としない。この福音こそ信じる人々を救う“神の力”である。」というのです。
10月31日は宗教改革記念日です。中世の教会がいつしか聖書の真理から離れて、儀式と習慣の惰性に陥り、この世の世俗権力さえほしいままにして、功徳による救い、罪を赦す免罪符による天国への保障は完全に福音からそれてしまっていたのです。ルターは「正しい者は信仰によって生きる」(ロマ1:17)の言葉に立ってイエス様を信じること、その「恵み」にこそ神の祝福を受ける道があるとしたのです。そしてこのイエス様の恵みは神の言葉、「聖書」66巻以外にはその土台はないとしました。「信仰」と「恩寵」(恵み)と「聖書」をしっかり土台とした信仰生活こそはイエス・キリストが約束される勝利の生涯であるのです。「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの“信仰”です。」(ヨハネT、5:3−5)ルターの信仰の改革はプロテスタントと呼ばれました。それは「抵抗する」という意味です。真理からそれ、キリストの教えをゆがめる、神の愛と恵みを見失ってしまうことへの警告であり「抵抗」であるのです。神様から離れ、その恵から迷うことへの「信仰の反省」こそが勝利の信仰を約束します。
「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(ヨハネT、5:5)



今週のみ言葉 
ハバクク2書5節「神に従う人は信仰によって生きる」




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