11月28日 礼拝メッセージ

「クリスマスを待つ喜びを共に」ルカによる福音書4章16−21節

今年もクリスマスが近づいてきました。クリスマスはすっかり日本では年末の風物詩となっています。この頃ではデパートや繁華街だけでなく住宅街の家々にも電飾デコレーションが飾られるようになり、クリスマス・イヴにはどこの家でもケーキを買って喜びを祝うことが定着してきています。キリスト教の国のようになっている錯覚をしてしまいます。
先週は韓国の国境の島で銃撃戦が始まり驚愕しました。この春、哨戒船が謎の撃沈をされ48人の兵士が死亡するという悲しい出来事が起こりました。調査により北朝鮮による攻撃であることがわかり国連でも話し合われましたが大事に至らず、韓国の忍耐の自重により戦争にならなかったことで胸をなでおろしたのでした。20世紀は戦争の世紀と言われるように悲惨な破壊と殺戮の時代でした。第二次世界大戦が終わり世界は平和に目覚め、国連が再度、構成されて話し合いの場が出来ました。しかし、世界のどこかで戦争は続いています。
クリスマスは神様が実現される平和の訪れの出来事であるのです。「神は平和の源である」(ロマ14:33)。そして「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(ロマ14:17)と使徒パウロは記しています。キリストは最初に宣教を始められた時、ナザレの会堂で聖書を読まれたのでした。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(イザヤ61:1。ルカ4:18,19)これはイエス様の使命を述べているのです。解放と回復、自由を与え、真実の平和の道、よき訪れ、福音を実現するために来たことを示しておられるのです。第一に、「捕われている人を解放する」ことは人間を破壊と悲惨にする罪と争い、この罪の結果が争いであり、罪の根源こそは神を拒むことを指しているのです。神のおられるところ、神を信頼するところこそは「神の国」であるのです。「神の国は平和の根源である」と言われているように、神を忘れ、神から離れるところに罪と争いが尽きないのです。第二に、「回復」です。「目の見えないものを癒す」とは神様が解らない心の目を癒すことにあり、「和解」を意味します。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」(エペソ2:14−17)「和解」は「赦し」であるのです。赦しは「贖い」、即ち、反省と代償であり、悔い改めにより神はその代償としてイエス・キリストが十字架にかかって犠牲を払われたことによって赦されることを示しているのです。それこそが神が愛である証です。クリスマスは神様の愛の証しであるのです。第三に、「自由」、何にもとらわれない、迷わない、支配されない。「自主」の人とするのです。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理(キリスト)を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31,32)。
クリスマスは平和をもたらす道の光であり、人を人として真実の幸せに生かす救いの訪れの時であるのです。クリスマスを迎える前に、心の準備をしなければならないのです。神が示して下さる真実の平和が実現できるように。家庭の中に、国の中に、全世界にクリスマスの平和が実現しますように。心よりクリスマスがお祝いできるように備えようではありませんか。



今週のみ言葉 
イザヤ書 40章31節




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