12月26日 礼拝メッセージ

「すべてのことが感謝となる日」ローマの信徒への手紙8章26−28節

一年の終わりの礼拝は、一年を振り返って感謝をする礼拝の時です。年末には仲間や会社で忘年会が開かれます。忘年会は“一年の苦労を忘れる”交流会であるようです。

しかし、広辞苑によれば「忘年」とは「年の老いたことを忘れること」「老年を気にしない」「年齢の差を気にとめない」という意味があるようです。

私は来年で喜寿を迎えます。77歳です。元気で奉仕をさせていただいています。読書や課題の研究にも充実と意欲があります。運動はコナミで週2日みっちり練習します。落語でお話の研究もして楽しみます。趣味の写真も充実しています。時々、固有名詞がプッツンと電源が切れたように出てこないことがあるのが加齢現象かなーと思うぐらいです。

勿論、体は、自動車が、古びて故障が増えるように体力が衰え、病気も出てきます。そうすると日常生活でも助けが必要になり、教会の奉仕でも助けられ、支えられることによって“感謝”に溢れた日々となり、より一層成熟し、充実感を経験できるのです。

「年齢が気にならない」とは時間が過ぎてゆき、形があるものが変わる空しさからの解放と理解できます。すべてのものを変化させる時間に生きるのでなく、変化のない時間、終りのない時間、永遠の時間に生きる成熟と充実であるのです。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ8:28)「万事が益となる」というのは、すべてのこと、即ち、苦労も悲しみも、喜びや満足もすべてのことが「益」となると言うのです。

「益」とは役立つ、意味のある、捨てられない、忘れ去ることのできないものであると言うことになります。若い時の青春の可能性と喜び、壮年時代の意欲と喜び、熟年時代の充実さ、高齢者の苦悩、P・トルニエという人は「人生の四季」という本を書いています。

人生は若い春、働き盛りの夏、刈り入れの秋、そして冷たい冬、高齢の季節を表しています。しかし、高齢の人がイエスキリストに出会って幼児の様な夢のある人生を生きる充実感と喜びを紹介しています。

確かに見えるもの、存在するものは移り変わります。いつも変わらない希望をキリストは約束しているのです。

「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。
見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。」(ロマ8:24)

移ろいゆく現実、そこには移ろいの中で不安や苦悩がつきまといます。しかし、見えないが事実とは神の約束される希望、永遠の命、神の国が信じることが現実となると言うことです。

不確かな未来の約束でなく、今生きている現実の中で変わらない神の命に生きる経験が約束されているのです。ですから、実在されえる見えない神様を見失う時に、見えるものだけに依存することになります。

「神を愛する者たち」にとっては、如何なる時でも、如何なるところでも共にいて生きる希望を愛するがゆえに約束し、実現して下さるのです。
希望は未来のことです。今、試練があり、問題がある。

しかし、その時にこそ未来の希望が信じることによって命となり力となるのです。
現実がどのような問題に囲まれていても希望は、現実を克服する命、力となるのです。

英語で希望はホープです。ホップという「飛び跳ねる」という言葉と語源が同じと言われます。かがんで飛び跳ねる。

苦しみや試練の時は“どん底”です。そこから“飛び跳ねる”ことこそが「希望」であるのです。

イエスは「死んでも生きる」と約束されているのです。見える人生は終わります。

しかし、見えない永遠の人生は、神の国に生きる者にとって現実の中で希望となるのです。

人生にはどのような時にも、「神を愛する」人にとっては「神に愛されている自分」がいる限り、希望に満ちているのです。

日々の生活に何一つ「無益」なものはなく、神が共にいて下さるという信仰の現実によって試練と困難を通して成長し、確信して道が開かれることになります。

「神を愛する者」に約束されている祝福であるのです。そして日々、感謝と喜びに感謝にあふれて歩むことが出来るのです。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(コリントT13:13)新しい年を希望を持って迎えましょう。




今週みことば   イザヤ40章31節
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」




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