2011年 2月6日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル  「人生レースの喜びと勝利」
聖書箇所  ヘブル書12章1−6節
 人生はレースだとよく言われます。このレースはマラソンのように長いレースです。実際は人生は一人ではなく駅伝のようにチームのレースでもあるということになります。人は一人で生きることは出来ません。ある時は、教えられ、ある時は支えられ、また、ある時は人を教え、人を支えることにもなります。人生レースは人との出会いの中で展開されるものです。とにかくレースは勝利を目指すことになります。駅伝のレースは、まず、それぞれの選手が「勝利」を“確信”することから始まります。そして、各選手が自己管理による訓練の準備です。走破のテクニック。次に、健康管理が必要です。それぞれがレースの環境を理解して対応する準備が必要になります。このようなことが積み重ねられてスタートラインに着きます。
聖書には「自分に定められている競争を忍耐強く走ろうではありませんか。信仰の創始者であるイエスを見ながら。」(ヘブル12:1,2)と記しています。今日は年度の宣教計画を話し合う総会です。改めて、今年の宣教レースをこのみ言葉に聴き従い、勝利の成果を祈らなければなりません。イエス・キリストの事を思い「よく考えなさい」と云っています(12:3)。
第一に、「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、」(12:1)11章では多くの信仰の証人、モデルがあるのですから、この人たちの信仰に学びなさいと言い、「重荷」と「罪」をかなぐり捨てるように勧めるのです。「重荷」とはなんでしょうか。信仰生活を阻む様々な迫害であり、誘惑であるのです。そこから生まれる挫折と放棄が信仰のレースを敗北させることを指しているのです。そして、信仰を持って勝利の希望に生きる現実を敗北に至らせることになります。ここで言う「罪」は神が求められる戒めであり、その戒めとは、神に喜ばれる道であるのです。神の御心にしたがい、実践することこそが勝利の道であるのです。しかし、新約聖書における戒めの中心は「キリストが私たちを愛して下さったように、私たちが互いに愛しあうこと」(ヨハネ13:34)なのです。それは福音、即ち、イエスの十字架の出来事、即ち、罪の赦し、神の愛であるのです。この信仰による神の愛が生かされてこそどのような挫折もあきらめもレースは勝利へ辿りうると約束しているのです。キリストの福音に生きる。イエスの愛のあるところに勝利があると約束しているのです。
第二に、レースを勝ち抜く忍耐力を養う必要があります。「気力を失しない疲れ果ててしまわないように」警告をしています。だからこそ「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」(12:5−7)鍛練は勝利を願う「愛」の訓練であることが解ります。教会の交わりが、この世的な妥協、曖昧な生き方では神様の人材は失われることになります。「信仰の導き手」「完成者」であるイエスがおられる時こそ「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ロマ書8:32)、「あなたがたがわたしによって平和(勝利)を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)この言葉を信じて主の訓練に従う時、勝利の道は開かれるのです。
第三に、「信仰の創始者(導き手)であり、完成者を見つめながら。」(ヘブル12:2)導き手であり完成者はイエス・キリストであるのです。集中してイエスに教えられ、従い、学び、キリストに学ぶ、即ち、「まねる」ことこそ信仰の秘訣であるのです。使徒パウロは「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(コリントT11:1)と勧めています。「キリストを見上げる」ことは「キリストに倣う」ことであるのです。信仰のレースの完走の唯一の道があるのです。生きた信仰の恵みが現実の生活に実を結ぶのです。ハレルヤ。

【今週のみことば】
ロマ書8章31節
 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。


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