2011年 2月13日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル  「祈りの力と恵」
聖書箇所  マルコによる福音5書10章46−2節
 キリストを信じている証明は「祈ることが出来る」です。神様を信じていなくても日常の生活で人は手紙の最後の挨拶や、結婚式などの挨拶でも「御多幸を祈ります」などと言います。真実の祈りは真実の神様に祈る時に、真実の祈りがあります。祈りは神様との交流の場であり、対話であるのです。信じることは自分の全存在をかけることになります。心で信じるのですが、納得していることであり、理解していることでもあるのです。納得も理解もしていないのは盲信になります。クリスチャンの神は創造主であり、存在と命の根源であることを教えられて信じているのです。生かされているわたしを自覚している事になります。そして、生きることが出来る自然に包まれていることから、神に愛されている自分を見出すことができます。現実は罪深く、迷いと当惑の日々を歩む私たちのために、神はキリストによって「神が愛であること」を、「神は人と共に歩み」助けられることを体験しているのです。祈りは生活の中に神が共いて下さることを体験することです。イエス様が、エリコの町に来られ、町を去ろうとされる時、街角にバルティマイという盲人が道端に座っていました。彼は、イエス様が来られた事を聞いて、大声で助けを求めました。人々は、胡散臭く彼をたしなめました。しかし、彼は大声で叫び続けたという。イエス様は「何をしてほしいのか」と尋ねられると、彼は「目が見えるようになりたい」と言うのです。イエスは「あなたの信仰があなたを救った。」と言われると彼は直ちに見えるようになったのです。この記録の教訓は祈りの真理について学ぶことができます。
第一に、言うまでもなくバルティマイは自分の惨めさを自覚していたということです。「物乞い」(46)とあります。人に物乞いをすることは、人を卑屈にする悲しいことです。物乞いは自尊心を失わせることになります。自尊心を失うことは人間性を失うことであると言われます。そしていつしか人間は自己嫌悪に陥ることになります。バルティマイはイエスの評判、福音を聞いていたのです。イエスが神の愛を語り、祈られると病が癒され、孤独な人には交わりを、悲しむ人には慰めを、不思議な奇跡をもって人々に勇気と平安を与えておられることを聞いていたのです。イエスがエリコに来られている。もう近くに来られると聞き、人騒ぎに聞き耳を立てながら、見えない目を大きく開いで空を凝視しながら叫ぶのでした。「わたしを憐れんで下さい」と。イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)と言われる。バルティマイは自分の惨めさから解放されたいと願っていたのです。祈りは祈る課題を明確する時にこそ真剣に祈ることが出来るといえます。また、問題のない日常の生活では神様の恵みを自覚し、感謝をささげる祈りが出来るのです。
第二に、「叫び続ける」(:48)人々は、バルティマイをうるさい物乞いとしてしか見ていないのです。この世の中では貧しさや、障害者には差別と卑下が根強くあるのです。イエス様はどのような人にも隔てなく愛をもって接して下さるのです。仏教では「諦めが肝心」と言いますが、イエス様は「諦めてはならない、…失望せずに常に祈れ」(ルカ18:1口語)と言われています。あきらめは敗北と同じであるのです。私達の教会の新しい会堂建設の時は財政的にゼロに等しい状態でした。しかし、新しい会堂を建設する希望を持ち祈り始めました。その祈りが消える時にビジョンも揺らぐ時でした。祈り続けた時、不思議な出来事が次々と起こり不可能と思うようなことが現実に可能になっていきました。祈り続けることそれが祝福の実となるといえます。
第三に、祈りに大切なことは、最も根本的な解決を求めることです。バルティマイは物乞いをしていました。確かに経済的に人の情けで支えられていたでしょう。お金が必要なのです。しかし、「イエス様、お金を下さい」と叫ばなかったのです。イエス様はバルティマイになにが必要かご存じであったのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6:8)あえて「何がしてほしいのか」と言われます。彼はお金でなく「目が見えるように」と言ったのです。お金はその日に必要です。それがなくなれば惨めさが戻ってくるのです。目が明ければ、仕事もできます。生活もできます。家族の顔が見える。山も、川も、花も、雲も美しい景色を見れるのです。慰め、元気、生きる喜びが甦るのです。何が、根本から解決するのかが祈る祈りの大切なことであるのです。自分の信仰を呼びさまし得くださるのです。最後に、神様に祈る祈りは、始めに「聞く祈り」が大切です。聞く祈りとは、神の言葉聖書を読むことです。聖書のお言葉、神の言葉は神様の御心、約束であり、教えであるのです。御言葉に根差した祈りこそが真実な祈りに導かれることになるのです。そこに限りない神様の命と力がみなぎることになるのです。

【今週のみことば】
コリントU1章4節
神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。


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