2011年 2月20日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル  「キリストにある喜びの交わり」
聖書箇所  ヨハネによる福音書13章1−11節
イエス様は神の御子であられるので、イエス様の御言葉を信じることは、神の言葉を信じることになります。ヨハネによる福音書12章44節には。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」とあります。イエス様を受け入れ信じた弟子たちは、イエス様の使命を受け継いで、その福音を広めるために用いられました。神の御国に生きる喜びを託されたのでした。しかし、実際には弟子たちは、使徒言行録の2章の記録にある「聖霊を受ける」まで、イエス様の福音をよく理解していなかったといえます。福音は「罪の赦し」であり、神が、十字架の代価を払って贖って下さる恵みであるのです。トーラー(律法)を守るために、トーラーを細かく規定を作り、しまいには、神に全く関係のないことまで「神の律法」として生活を締め付けることになりました。その結果、人間の自由を奪い、拘束し、表面的な偽善的生活に陥っていたのでした。 イエス様は、一つのカギとなる戒めを与えられています。それは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ12:34)福音は愛し合って生きることに尽きるのです。イエス様が十字架の上で敵を赦し、祝福されて自分の罪を知らない悲しみを祈られたのです。赦される恵です。律法には裁きしかなく、人を裁き、人は、人を差別し、見下げて、自己欺瞞に陥るのです。弟子たちが、律法から解放されるきっかけはヨッパの皮なめしシモンの家でペテロが祈りの時に汚れた食べ物(食物規定で禁止されている)の幻を見た時、「神が清めた物を清くないと言ってはならない」と言う声を聞きます。これが律法からの解放を告げられた福音をペテロは自覚して行くようになるのです。
イエス様は、最後の別れの時、弟子達と共に食事をされる前に、弟子たちの足を洗おうとされた。順番に洗い、ペテロのところに来られた時、「私の足を決して洗わないでください」と言ったのです。確かに、人の足を洗うのは召使の仕事であったのです。師であるイエス様に洗ってもらうのはまったく逆であり、畏れ多いことであったのです。イエス様の足を洗うべきなのは弟子たちであったのです。ペテロは当然。この理解できないイエス様の仕草に弟子達の代表として当然の言葉であったといえます。しかし、イエス様は、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられたのです。では、「全身を洗って下さい」とペテロが言うと「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」(13:10)と言われるのでした。「既に」は、イエス様が弟子たちに幾度となく、神の愛を語り、その為に死に,そして甦る永遠の命を証しすることを教えておられた。イエス様を通して神様の愛をもって愛し通して来られていた。その愛を生きることこそ福音に生きる弟子達の証であると言えるのです。「愛しあうとは」どういうことか。福音に生きることは何かを洗足で教えられたのでした。神様にある平和、平安、交わりの喜びこそ、「互いに愛しあう」ことによって経験できることを教えておられるのです。だから、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(14)と言われています。愛の賜物は謙遜であるのです。フィリピ2章の3、4節には「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」とあります。キリストの愛の交わりのあるところに、キリストは臨在されるのです。(マタイ18:20)愛の交わりのあるところに「神」は臨在されるのです。「互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Tヨハネ4:12)キリストを信じ、神の愛の交わりのあるところに真実のキリスト教会があるのです。キリストの教会の交わりこそ、平和を生み出し、希望を生むのです。その愛と希望が人々への希望となり、交わりの輪が広がることこそ福音であると言えるのです。神に愛されている自覚のある人こそ、人を愛する愛に生きるのです。そこに交わりの喜びが生まれてきます。

【今週のみことば】
ロマの信徒への手紙12章9−10節

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、
兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。


 ページのトップへ    2011年の礼拝メッセージ  他の年の礼拝メッセージへ      トップページへ