2011年 1月16日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル  「人を生かすキリストの心」
聖書箇所  フィリピの信徒への手紙2章1−11節
希良ちゃんとのお別れが去る21日月曜日に持たれました。それは短い生涯でした。栫井兄弟姉妹の祈りと願いによって結ばれた命でした。出産を待たずに天国に帰る生涯でした。祈り待ち望み、受胎を喜び、育んで手当てをしました。しかし、この世に留まることは出来ませんでした。教会の温かい見守りの中で涙の告別でした。そしてこの悲しい別れから多くのことを教えられ神様の御名を崇めました。イエス様は言われた「子供たちを来させなさい。天の国はこのような者たちのものである」(マタイ10:14)。生まれずして主のみもとに行くことは、“苦しまず”に神の国に行くことになります。ヨブ記に「人間は生まれれば“必ず苦しむ”。」(5:7)とあります。人として「生きること」は“罪を犯す”ことであるといわれます。英語で「生きる」は「live」であって、裏返せば「evil」(悪、邪悪)であるのです。それは生きることは罪を避けることは出来ないとも言えるのです。だからこそキリストは罪を購うために十字架にかかって死んでくださったのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方」キリスト)によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(Tヨハネ4:9)キリストにあってこそ人は、人として生かされるといえます。
希良ちゃんはこの世に生まれずして、神の国に生まれたことになります。悲しみながら主(キリスト)の御名を讃え、現実をしっかりと受け止めて、両親と神の家族は現実の試練を受け入れることが出来ました。そこには「泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶ」(ロマ12:15)神様を信じる人に与えられる心の支えがありました。キリストの思い、心が人として生きる素晴らしさを証しして下さっているのです。「今は恵の時、救いの日です。」(Uコリント6:2)だからこそ「死にかけているようで、このように生きており、…悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多く人を富ませ、無一文のようで、すべてのものを所有しています。」(Uコリント6:9−10)
希良ちゃんと両親の喜びと悲しみは慰めとなり、支えとなりました。そして現実に天国に生きる道を分かち合えたのです。私たちはこんなに素晴らしい神の家族なのです。神様は見えませんが、神様が現実に一緒にいて下さる体験をすることが出来ました。希良ちゃんと神様の国で会えるのです。
「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Tヨハネ4:12)神様の臨在の場所こそ、神の国です。神様の愛こそ、人の心の中心であり、「真実の愛」こそ神であるのです。「神は愛なり」(Tヨハネ4:8)であるのです。その愛こそ「思いやり」即ち、心配することであるのです。心配して下さる神様。「優しさ」にほかなりません。優しさこそは神に似せて作られた人間の本質であるのです。「優しさ」は「人偏(にんべん)」に「憂い」と書きます。「憂う人」です。「共に喜び、共に泣く」事にほかなりません。共に、思い、共に泣き、「共に重荷を負い合う」(ガラテヤ6:2)神の家族こそはキリスト教会であるのです。キリストの教会は地上における神の国の大使館であるといえます。わたしたちの教会の青年会は「CA」と言います。これはクライスト・アムバサダー(キリストの大使)を意味しているのです。教会は神様の国のメッセージを伝えるところであるのです。
キリストの大使は神の愛の大使、正に、「天使」であるといえましょう。この地上に神の国を日々実現する天使であるのです。その使命をゆだねられているのが教会の兄弟姉妹であるのです。主に栄光があるように。ハレルヤ。

【今週のみことば】
ロマ12章10−11節
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、
兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。

 


 ページのトップへ    2011年の礼拝メッセージ  他の年の礼拝メッセージへ      トップページへ