2011年 3月6日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「キリストにある人生の輝き」
聖書箇所 ヨハネによる福音書5章1−18節
今日の大きな社会問題の一つは「閉じこもり症候群」問題であると言われる。若年層から四十代ぐらいまでの閉じこもりに陥っている人々が全国で60万人いると言われている。共通している事は社会的な絶望感であり、どうにもならないという戸惑いである。そして、人間関係をうまく受け入れることが出来なくなる。人は、人と共に生きてこそ人として生きることになる。人間はまた、世間である。人と、世の間に人と世がある。世は人であり、人は世であるということになる。人は、一人で生きることは出来ない。人と共に、「世間」に生きてはじめて人間となるというのであろう。だから、孤独と閉塞感は人を動けなくする。生活が出来ない。それでもだれかに養われて生きることになる。依存と自立心の喪失が孤独となって精気を失い、感情喪失になっていく。R
人生という旅は、人にとっては一度しかない。その旅路を暗い闇の中を歩くように生きるか、輝きに満ちた旅にするかは大きな岐路であると言える。「救われるためにどうしたらいいのですか」という問いに、使徒パウロと同労者シラスは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)とはっきり答えています。イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ16:28)と言われている。例外なく、無条件に「イエスのもとに来る人を休ませる」というのである。この「休ませる」(アナパウオー)いう言葉は単に休むのでなくリフレッシュするという意味もあり、さわやかな、新しい命と力を与えるということになります。キリストのもとに来て単に休むのでなく、新しい生きる力、新しい希望に生きるようにして下さると約束しています。
エルサレムの羊の門の横にベトザダという池があった。そこには回廊があって多くの病人、目の見えない人、足の不自由な人、体が麻痺した人などが横たわっていた。この池には時々、天使が降り、水を動かす時に、最初に入った病気の人がどんな病気でも治るという不思議な伝承があった。実際に、起こる不思議な出来事に期待して病人が群れをなしていた。そこに38年間病魔にむしばまれ身動きの取れない人が横たわっていた。訪れるチャンスも我先に飛び込む人々のために、人手の助けに必要なこの人にはチャンスが来ない。それでも諦めずなんとかして直していただこうと佇んでいた。この気の毒な姿を見てイエスは言われた「よくなりたいのか」、彼は「よくなりたいのですが、自分ではどうしようもないのです」と現状を訴えった。彼は希望と絶望感にさいなまされながら、イエス様に「よくなりたいのです。どうにもなりません。」というのでした。イエス様は「起き上がりなさい。床を取って歩め。」と言われると彼は、立ち上がりあるくことが出来たというのである。この物語から、キリストが正に「疲れている人。重荷を負う人は…リフレッシュしてあげよう」と言われるとおりに彼の人生は変わった。
第一に、この癒された人は、健康を回復することによって生活の自立が出来るようになったことです。自分の足で立ち歩くことこそは喜びであったのです。足があっても立ちあがれない。手があっても働く意欲がない。イエスはその人の心にリフレッシュの命を与える道を開かれている。心の足、心の手が機能を回復するときにその神様の命の力は人を立ちあがらせて下さるのです。
第二に、心の闇をとりのぞかれる。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:4、5))心の闇は人と人の絆を分断する。「言」即ち、キリストの言葉の内に命がある。ベテザダの池で癒された絶望的な38年間待ち望んだ人は、絶望の中に「光」とであった。イエス様の名前も知らなかった。しかし、イエス様は近寄り、絶望的な人の前に立たれた。そして癒しの希望の光で照らされた。イエス様が誰であるのか知らない。しかし、イエス様は彼を完全に回復された。生かされた。私達もどのような時にも神に生かされている自分を自覚できることは、人間性を取り戻し、生きる喜び、生かされている喜びが感謝となり、賛美となる。輝く人生に変えられる。
第三に、イエス様の善意の行為は、当時のユダヤの律法では、その日が「安息日」であるので、人を癒すということは律法に触れることになっていた。しかし、38年間苦しむ人を助けることは人間として「悪い」事なのか。イエス様は神様の愛の心で生きることを、当時の律法の線を越えて大胆に行われた。この事がきっかけでイエス様は命を狙われはじめたのである。神を信じる信仰は、神に愛されている事に目覚め、神の愛に生きることに人生の目的を持つことを教えられる。神の愛は心の闇を消し去り、人に生きる輝きを与えるのである。ベテザダの池で癒された人はやがてイエス様が何故十字架にかけられ死なれたのかを心に留めることが出来たと言える。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである』(ヨハネ1:9)「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3:16)

 

【今週のみことば】
エフェソ3章11節
 これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。


 ページのトップへ    2011年の礼拝メッセージ  他の年の礼拝メッセージへ      トップページへ