2011年 3月20日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「試練の中の神の愛」
聖書箇所 ルカによる福音書17章11−19節
「試練の中の神の愛」ルカによる福音書17章11−19節 3月20日

東北関東大震災を思い、日本中の人々だけでなく、世界中の人々が被災者を痛み、悲しみを共有しています。どのような人でも、なぜこのような災難が東北、いや日本に起こったのか考えるのが自然です。どのような会話の流れか分りませんが、ある知事さんが東北・関東大震災は「天罰だ」と発言したことが顰蹙(ひんしゅく)をかっているようです。“被災した人たちには気の毒だが”というコメントも何か空しく聞こえるようです。韓国でもキリスト教界を代表するようなある牧師さんが3月12日、インターネット新聞『ニュースミッション』とのインタビューで「信仰的にあまりにも神様を遠ざけている日本国民は偶像崇拝や無神論、物質主義に陥っている。日本震災はこれに対する神様の警告だ」、韓国の江南のある教会の牧師さんは「神様を信じないで偶像と天皇 に仕えて罪が多いからだ」と発言したと言われており、不見識に対して社会的な顰蹙や批判が起きて、政府大統領府から「自制の要請」までも出ているようです。
友人から「あなたなら神学的にこの災害をどう理解しますか」と尋ねられた。一瞬、答えが見つからない。素朴に、どの時代も政治不安、頽廃的世情、情報の混乱などが神を忘れた世情の反映として映り、災害が神の怒りと裁きに投影される歴史的な推移があります。今や、現代の思考や知識で説明できるものではないでしょう。自然の天災と人災とは根本的に違います。人災は、人間が原因であり、責任であるのです。幼稚で無責任な政治、戦争による戦渦などは人間の罪悪の集成であろうといえます。自然の変化、仕組みの転換で起こる災害は、理由は求むべくもないということです。勿論、前もって予測して土木工事で防災するのでしょうが、この度は、過去の経験に基づいて10mの津波防災工事がされていたと言われておりますが、15mではどうにもならなかったようです。言葉もなく悲しみと痛みを偲び、苦しみや、悲しみ、極限状態にある人々を思い、涙し、何が出来るか自分に問い、行動できることからその痛みを分かち合うことです。その現実に人として学び、その学びを通して取るべき自分を見出していくことになります。
阪神震災の時、神戸大学教授であった室崎益輝先生の災害の講演を聞いた。「災害パラダイス」と言う言葉を聞いて忘れることが出来ない。交通機関は遮断され、道路は倒壊家屋でふさがれ人々は、親族縁者を心配して西に向かい、被災した人々は東にのがれ、国道に沿って人の波が続いた。道端でおにぎりとお茶が並べてあって「どなたも自由に召しあがって下さい」と書かれてあった。人々は、涙を流しながら食べていた。互いに関係があるのでなく、困っている人を思いやる心があった。人を愛する心である。災害の時、どんな人でも困っている人、悲しんでいる人と共に思いやる心を持つものである。災害は貧富の差、この世的な地位に関係なく人々を襲う。ライフラインは断たれ、すべての人が生きる極限に叩き込まれる。そこで必要なのは「共に」助け合うことである。人の「愛」こそが人を生かし、希望を与え、助け合う勇気を生み出す。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(ヨハネT4:12)犠牲の愛のあるところに神はおられるのです。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創生記1:27)見えない神に似せて作られるとは、何を意味するのでしょうか。「神は愛なり」(ヨハネT4:16)とあります。神に「かたどる」とは、正に「人は愛で生きる」ことになります。この「愛」はアガペーであって、神の愛を指します。「犠牲の愛」です。報いを求めない愛、この愛は人を選ばない愛です。善悪さえも超えて、人が生きることへの願いです。神は、「人を愛しあうように」創造されているのです。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」という諺があります。極限的な試練の時に人は、失われた「神の愛」を自覚するのです。困難が、悲しみが、苦しみが人の心を取り戻すといえます。そして平常に帰ると人は、自己愛と自己欲を中心に生きてしまうことになります。そこに争いと欺瞞が罪となって人をむしばみ、腐敗し、生活を破壊し、社会を不安に陥れることになります。試練と困難の時にこそ人は、人であることに目覚めることが出来るのです。東北・関東大震災にあって日本国中の人々が、企業が、あらゆる団体の人々が、心を痛め義援金を送り、現地で奉仕を願っています。国境を超え、貧しさを超え、思想を超えて被災者を、日本を痛み、応援は広がっているのです。人が神に「創造された証し」、即ち「人は愛しあって生きる」ことを表しているのです。多くの犠牲になられた方々の犠牲を悼み、その尊い人生を思い、「愛しあって生きることの大切さ」をその犠牲をわすれないことこそは、痛ましい犠牲が命として永遠に生き続けるのです。試練が神の愛を取り戻す時であることを示されるのです。悲しみが、苦難が、それだけで終わることなく、犠牲になられた人々の悲しみと共にどんな時にも神の愛を生きる日々を送ろうではありませんか。
ルカによる福音書17章には、10人の重い「皮膚病」になった人たちがイエス様に出会った経緯が記録されています。この皮膚病は口語訳では「らい病」と訳されています。現代では医学が進みそれは死語ではありますが、古代から難病として恐れられてきました。イエス様がサマリヤとガリラヤの間を通られた時とあります。この地は差別と憎しみの狭間にあって人の近寄らない地域であったのです。この重い皮膚病の人々は、隔離され肉親さえも近寄らない事情がありました。
災害には時間と数量に人々の関心も違います。だんだんと災難が襲うことやまた一人二人の存在は人や社会の関心も違います。災難が大きくなればマスコミも報道します。一人の人にとっては時間もその事件の性質も関係なく、重大なことは限りなく悲しいのです。悪性の治癒不可能と恐れられて友達や親族と社会から隔離されてしまうことに絶望的になります。孤独、絶望と悲嘆にくれる日々を誰が想像できるであろうか。そのような時、イエス様の不思議なうわさを聞いたのです。どのような苦しみでも解決されるイエス様の噂です。共に苦しみにある人々と相談して近くを通られるイエス様にとにかく助けを求めようということになりました。遠くの方から大声で叫んだとあります。これは当時の律法で「健康な人に近寄れない」ことになっており「人のいるところに入ると石を投げられる」と言う悲しい事情がありました。十人の彼らは力いっぱい、声を張り上げて「イエスさま憐れんで下さい」と叫ぶのでした。イエス様は、ただ「祭司のところに行って見てもらいなさい」と言われたのです。「重い皮膚病」は病院のある時代ではなく、当時は祭司によって「治癒」しているという判断があれば社会復帰が出来たのです。イエス様のお言葉にしたがってまだ病んでいる体を引きずるようにして歩き始めました。気が付いてみると手の症状も、顔の症状もすっかり癒されているのに気づき、神様を褒め称えたのでした。その一人が、イエス様のところに帰ってい来て足元にひれ伏して感謝したのでした。イエス様は「癒されたのは十人ではなかったのか、この外国人のほかの者はどうしたのか」と言われたのです。この外国人と言うのは、ユダヤ人と交流の拒絶状態にあったサマリヤ人であろうと見られます。この物語から苦しみにある人々への神様の御心を知ることが出来ます。
第一に、苦難は突然きます。それが一人の小さい存在では、関心が薄く。また、自分に危険なことは苦難に会っている人を拒絶するのです。神様は、苦難の大小を問わず、人が注目しない孤独な悲しみをも受け止められるということです。
第二に、奇跡は人々へのメッセージです。「キリストの心を心とする」(フィリピ2:5)「愛しあう人と共に神はおられる」(ヨハネT4:12)大災害の時には、考えられない多くの人々が苦しむ、人々は驚き、全国、国を超え。全世界が同情と助けを差し出す。人々が神の愛を取り戻す時であるのです。災害こそは人々が「神の愛」犠牲を惜しまないで救いの手を差し出す時となるのです。悲しみの中で人の愛に支えられ希望を持つ時となるのです。
第三に、「のど元過ぎれば」苦しみを忘れ、神の愛を忘れるような世の中になり、争いと憎しみ、故意の批判が世間を混乱させます。大災害でも「天罰」「神の警告」「神の裁き」だという宗教家は幼稚な偽善者と呼ばれるでしょう。イエス様は「そのような人が何十万の人を集めてもイエス様の愛の世界とは異質である」と言われると思います。苦しむ人々を「天罰」と言える政治家の人間性を忘れた軽薄さが、すべての人の心に潜む悲しい罪深さを言っているようにも思えます。イエス様は言われます「『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ7:22,23)。
第四に、神の心、愛しあう心はキリストが十字架で全人類の「真理の道」「命の道」として真実の神の愛、人が生きる愛の道を示されました。治癒不可能な悪質で「重い皮膚病」の十人が癒されていながら、一人だけがその恵みを感謝するために帰って来たのです。神は、神を知らない人にも、お陰だけもらえば後は関係のない人にも同じように「愛」を惜しみなく与えられるのです。「感謝」する心は人間性の証しであるのです。神は創造主であり、人が生きる道を備えて下さっています。人は、生きているのでなく、生かされているのです。神に生かされている自分であることに気づくときに「感謝」が溢れ、「賛美」が溢れ、「いつも喜び、いつの祈り、すべてのことに感謝できる」(テサロニケT5:16−17)人として下さるのです。試練の中にこそ神の愛を実感できるのです。 

「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。… だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 」(ロマ12:12、14−18)




【今週のみことば】
ロマ書12章12節
希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
 


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