2011年 4月3日 震災復興を祈る集い
礼拝メッセージ 
メッセージタイトル 「生きる命と生かす命」 
聖書箇所 マタイ16章21−28節
東北・関東大震災が起きて3週目を迎えている。深刻な放射能の影響で避難をする人、思いもしない地域から放射能の高い数値が出て野菜や牛乳に影響が出ている。東京あたりの飲み水にまで影響が出て、私たちの教会にも可愛い赤ちゃんが避難している。可愛い顔を見るたびに命の大切さを実感させられる。災害で命を失った方々の遺体も捜索が続いている。一人も残らず親族のもとに帰ることを切に祈り、一時でも早く被災者が落ち着き、復興を目指して動き始めたいものでる。
国家の安全と統治の責任を持つ政治家が批判し合い、政争に明け暮れることなく、日本の危機を一つになって乗り切ることを切に祈る。
未曾有の災害で改めて「命」の尊さをすべての人が実感した。「命」を大切にすることは「生きる」ことを大切にすることでもある。人の生涯は色々な人生がある。マタイによる福音書16章26節には「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」とイエス様は言われている。人間は、損得勘定で考えるのが普通である。自分の命を失ったら「何の得」があるのかと問われる。世界中の物を手に入れる。それは財力であり、権力や、地位、支配力であり最高の生活が得られていても「自分の命」を失えば何にもならない。この「命」は単に「生きる」ことではない。トルストイが言っているように「人は食べるために生きるのでなく、生きるために食べるのである。」と言う言葉が意味しているように「生きる」意味を指している。「命」と言う言葉は「魂」のある人間として「生きる」と言う意味がある。ただ単に自然に兎に角生きることではなく、「人間らしさを生きる」ことになる。人間は、単に「生きる」のでなく「人間として生きる」。そこには「人間」とはどのように生きるべきか、また、人間であれば「そのようなことはしない」と言う普遍的な、共通した人の思いがある。
大震災。津波の災害の悲惨さに、被災した人々への深い同情と哀感を持って真心こめて助けなければという思いが共通してあることは「人間」を深く考える時でもあり、人間として行動することを知り、学び、実践する時である。災害を神様の「罰」であり、「裁き」であるという批判があるとすれば「因果応報」の理屈で「悪い原因」は「悪い結果」があることになる。災害地域の教会や寺院、そのメンバーが例外なく過酷な災難に遭遇することは理不尽である。災難の中で人間として取り戻す、人間の本質「人間らしさ」が平時の時には忘れられる。聖書には不思議な言葉がある「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。」(イザヤ53:11)苦しみの中に「人の心」が「回復」することの中で「満足」するというのである。人々の人間性を忘れた罪深い性質のために神の愛を語り、神が愛であることを実際の生活の中で証しされたキリスト。その報いは十字架の道、迫害と処刑の苦難であった。裁くものを最後まで赦し、赦すのみならず祝福し、その自覚しない罪業を痛まれるキリスト。その苦しみを「満足」されるキリスト、即ち神である。災害の中で失われた人々の悲しみを繰り繰り返すことがないように復興しなければならない。
イエスは言われる「弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』」(マタイ16:14−15)多くのクリスチャンが導かれるのは人生の試練や苦難の時が多い。試練の中でキリストに表された神の愛と真実の人間の生きるべき道に出会うからである。石川五右衛門の辞世の句と言われる「浜の砂子は尽きるとも、世に盗人は尽きることはなし」は世の中から「盗人」がなくならないことを言っているのであるが、現実の私という心の世界を見る時、どのように世の中が変わっても「人」の心の中の「罪深さ」はなくならないことを言っているともとれる。キリストが「自分を捨てて」の言葉は「自分の内にある現実の罪深い人間の『命』を捨てて」と言うことになる。その罪ある人間が大災害の中で明らかにされている。罪ある人間性、「命」を捨てて、即ち、「悔い改めて」、キリストにある「神の命」に生かされようではないか。自分の命を捨てることによって神の約束されている新しい命に生きることになる。「今や(災害の今こそ)、めぐみの時、救いの日である。」(コリントU6:2)
人は、自分で「生きる」“命”でなく、人を「生かす」神の“命”に生きてこそ、真実の人間を生きることになる。その「命」こそ永遠の「命」である。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する(互いに愛しあう)任務をわたしたちにお授けになりました。」(コリントU5:17,18)

 
【今週のみことば】
マタイ16章26節

 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。


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